http://www.facebook.com/runningtrippers

Running Trippers'は、
旅の仲間と、世界中のマラソン大会に参加し、
その土地の「人」「食」「空気」を楽しむ活動&メディアです。

ということで、
そろそろ2011-2012シーズンも終了ですね。
みなさま、大変おつかれさまでした!

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今シーズンのRunning Trippers'としての参加大会&取材対象レースは、
・丸亀ハーフマラソン
・ヨロンマラソン
・京都マラソン
・平尾台トレイルレース
・ノーザンホースパークマラソン
・鯖街道ウルトラレース
このあたりを中心に、旅の仲間からのPHOTO & REPORTで編集していきたいと思います!
※レポーターの皆さま!ドシドシ写真&旅行記のUPお願いします^^!

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これからの季節は、
2012-2013シーズンに向けて、鍛錬の時期に入りますね。
~7月までは嵐山の新緑の美しい爽快なRUN絶好のシーズン♪
8月&9月の夏真っ盛りには、
六丁峠を往復し、清滝の自然のクーラーを肌で感じ、
RUN後のビールを枝豆とセットで”ゴキュッ”と味わうこれまた至極のHAPPYシーズンです☆

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旅RUNメディアRunning Trippersの発行は、
7月上旬くらいを予定しております^^!乞うご期待くださいませ^^/

※創刊号はこちら↓
http://www.musubi-cafe.jp/cmn/digibook/book_001/
 

 

走るようになってわかったこと 

欲求と抵抗。
まぁ、分かりやすく言えば、
「嫌よ嫌よも、好きのうち」というのでしょうか(汗)。
 
「欲求」とは抵抗の表現形であり、
「抵抗」は欲求の表現形であるということでござます。
 
「なんのこっちゃ?」かもしれませんが、
欲求と抵抗は、時として反対語のように理解されます。
言葉としてはそうなのかもしれませんが、
人の心理に照らし合わせると、双子のような存在なのかもしれません。
 
「○○は嫌だ」「○○は嫌い」という表現が示唆するものは何なのか?です。
この裏側に隠されているのは、
「○○になりたい」「○○が欲しい」ということに他なりません。
 
ヒトは賢明であると同時に、とても憶病でもあります。
 
すなわち、
「傷つきたくない」という欲求の表現形として、
「攻撃」や「逃避」という抵抗を示します。
「逃避は抵抗なの?」という疑問が生まれるかもしれませんが、
自らに降りかかることに対する反応
すなわち何かしらのアクションという意味では、立派に抵抗していると云えます。
その対極にあるのは、
「無反応」であることからしても、逃避も反応、すなわち抵抗の領域にあるものと捉えてもいいでしょう。
 
これは、
「色即是空、空即是色」であるわけです。
 
 
ここで敏感な人は気付き始めます。
それは、
意識的な反応と、無意識に近い反応があるということに。
意図ある反応は、むしろ反応というより、
すなわち意識下に感情を置いています。
一方で、
「なぜか受け付けない」を正当化しつつ拒絶する反応は、
意識下にその反応を置ききれていません。
 
これが現実レベルではどのように表現されているのでしょうか。
    「大好きだからガンバル!」
    「嫌いだけど、仕方ないからガンバル」
 
自分の「頑張りの動機」から出てくる答えの表現形を乱暴に分類すると、
上記の2パターン集約されることが多いように感じます。
 
    の動機は、やっていることそのものに動機があります。
一方で、②の場合は別の場所に動機を担保していることが分かります。
 
 
このように考えていくと、
どうやら、物事を自分の外側に置くことと、内側に持ってくること、
どちらを軸にして、日常の目の当たりにすることを処理するクセを持っているかが分かってきます。
結論から書いていくと、
    的な2次的動機で物事や人に対峙することは、
精神的には極めて脆弱だということです。
 
何かを為すために、
何か別のチカラを借りて推進することは悪いことではありませんが、
本来の目的が、
まったく別の事が理由となり、断念することを容認してしまう事もあるということになります。
とっても簡単に言うと、
「お金が無いからワタシは夢を諦めました」ということを正当化してしまうということです。
「生きて行かないといけないから、好きじゃない仕事でも頑張ります」にしても同様かもしれません。
 
前述したように、
それを「悪い」と言っているわけではありません。
MOTTAINAIわけです。
 
人は誰しも、
「○○は■■だ」という信念を多かれ少なかれ抱いているものです。
それは現実、事実とは別のところで、
各々で勝手に決め事をつくることを言います。
別に、そうでなくてもいいわけです。
ですが、そう信じ、そう決め事をつくるほうが楽になっている。
そういうサイクルで日々の言動、行動をパターン化することに慣れてしまっているわけです。
 
例えば、
自分の頭に逆の信念、すなわち「○○は■■ではない」という刷り込みを意識的にしてみると、
面白いことが起こります。
徹底的に「○○は■■ではない」理由をつくって、
自分に語りかけていくと、今まで「○○は■■だ」と思いこんでいたことが違って見えてくるものです。
 
このように考えていくと、
たいていの場合、
自分の「ゆく道」を阻んでいるのは、
自分の「思いこみ」による「言い訳」であることが分かってきます。
 
脳が創り出す複雑怪奇な思考パターンを、
とってもシンプルな「○○は■■だ」という言葉に押し込んで、
複雑怪奇というか、むしろ自分にとっては今困難なこと(忘れておきたいこと)を
やらなくていいようにする封印の術を、誰しもが使うことができてしまうわけです。
 
とっても丁寧に書いたつもりです。
端的かつ乱暴に言えば、
みんな「言い訳のプロ」なわけです。もちろんワタクシも!
そして「依存症候群」でもあるわけです。
 
自分の脳を、自分の脳で客観的に見る努力をしていくと、
どうやら自分の脳を傷つけたくないが為に、
「失敗想定下で、リスクヘッジ作を実行する」ことがメイン戦術になっている場合が多い気がします。
 
「ダメだったらどうするか」
「ダメにならないためにどうするか」
「イイようにするためにはどうするか」
「イイに必要なことは何か」
 
目標を達成するにあたり、
上記のプロセス要件を考えるのは定石ですが、
さて、
みんさんの日常生活、または職場等では、
課題達成のためにどういう要件定義を行う事が多いでしょうか。
 
よく見ていくと、
課題(物事)を自分の外側に置いている場合は、
リスクを想定するケースが多く、
自分の内側に置いている場合は、
実現可能性を探っているケースが多くなります。
 
これこそが、
「本気でやる気があるか」の真髄なのではないか、と思うのです。
 
「それ」は自分の事なのか、
それとも他人事なのか。です。
「他人事」の領域にある、もしくはそう思っている物事を、
「イイ」にするのは極めて困難です。
他人を操作しきらないと、自分の「イイ」に辿り着くことは難しいのです。
 
他責(他者を責める)ことは、自分の隠れ蓑なのです。
 
例えば、
「人を育てる」とか「お嫁さんになって幸せになる」などという表現を耳にしますが、
(個人的な見解ですが)ぼくは無責任に感じます。
何がゴールかが分からない。すなわち、「アナタは何をするの?」となるのです。
目指す何かを他に依存している気がしてならないのです。
育てられる側、ダンナになる側からして果たして本当にシアワセなのか。。。
(ブツブツブツ^^;)余談ですがね><
 
 
 
話は変わりますが…
 
「失敗」。
この名詞を見て、直観的に負の印象を受けるか、
それとも正の印象を受けるか、さてどちらですか。
 
と、いうように、
すでに刷り込んでいる概念、
すなわち「信念」があります。
この信念は、自分の好きなように再構築できるのですが、
幼かったかつ、若かったころに「信じ込んだ念」に、
大のオトナが従っているケースがとても多いのです。
 
 
女子サッカーワールドカップで「なでしこJAPAN」は見事優勝しました☆
スウェーデン戦で一躍ヒロインとなった川澄選手のお父さんがこんなことを言っておられました。
「娘は本当に大好きなことを一所懸命に出来た。それが良かったんだと思う」と。
また「一度も練習の厳しさに弱音をはくこともなかった」とも。
 
一例ではありますが、
ここには成功への方程式がシンプルに表れている気がします。
 
 
物事は「原因と結果の法則」に従い、
本当にシンプルです。
 
「イイ」には要因があります。
 
 
心の底から思える、とっても喜べる「イイ」を決める。
イイ結果にある条件をシンプルに設定し、
それを脳からカラダに指示を出してあげる。
指示に従い実行した結果生まれる想定外を、
ひとつひとつ丁寧に措置する。
 
これを繰り返すことが、
「イイ」を実現する秘訣に他なりません。
 
 
 
☆「決める」←自分のことにする
☆「過去の信念に縛られない」←言い訳を正当化しない
☆「自分のカラダを動かす」←脳とは別物であることを知る
☆「あらゆる面で比べない」←自分のことにする
☆「続ける」←言い訳を正当化しない
☆「達する喜びを味わう」←過去の信念を塗り替える
 
 
すなわち、
「達すること」は「信念の塗り替え」とも言えるわけですね。
 
 
走れるようになったこと。
ぼくには大きなHAPPYと気付きを与えてくれています☆
そしてそれは、
「自由」の象徴でもあるんです。
 
「与えられた(=制限)」と認識できることを越えて、
「出来ること」を知った時、
自由がもたらしてくれる、人(=自分)の持つ能力の無限性に触れられる。。。

「攻撃」と「逃避」そして「保留」…すなわちは「決めない」「やらない」は、
自分にとっては何も生まない「大敵」であることに気づけたわけです。



<自分の中の負>
マラソン走れたらそりゃいいけど。。。
自分は短距離が速いから、
長距離が遅くてもまぁ、メンツは保てるよ…
だって、そもそも向いてないんだよね><
(昔はスポーツ得意だったんだよ!と自慢話にしばし時間を費やす…)
まぁ、君と僕は違うから、それぞれでいいんじゃない。
(こうして自らをドンドン孤立させ、頑なにしていく…)

 
 
なんだって「出来る!」は、
走ってみないと分からなかったわけです^^♪
 
そして、
このことは「一事が万事」であることを肝に銘じておきたいのです。

 
by Peach

みなさまコンニチワ!
昨日をもって、GWが終わりました。
Golden Weekは、字のごとく素晴らしい日々となりました。
OPENした結庵のゲストの方々含め、
多くの新たな出逢い、そしていつもの仲間との集い、
ほんとに楽しい楽しい大型連休でした^^!
有難うございました!!

本日のmusubiは、
またまた通常の(汗?)musubiに戻っております^^;
嵐山も平常の静けさを取り戻しております。

ご主人さま(ヒラリン店長)は、鯖街道レースに向けて明日から走る気マンマン!
番頭さま(おがちゃん)は、大悲閣に写経に出掛けて行きました。
そんな中、コースケくんはnewアルバムの仕上げにピリピリモード。
ミナミは就職活動に勤しみ、ダイキはサボった勉強のため休日登校。
ジャネットは古巣人力車の車夫に声援をおくり、よっさんは電池切れの電動アシスト自転車で鍛えてます。
シリュウは・・・・・・「ちゃんと勉強せえよ!」と常連さんにハッパをかけられつつも、
スタッフからは「おやつヌキ!」指令をうけてショボボーン(涙)
そんなみんなを見ながら「ほんま、どいつもこいつも…」とぼやいてる番長よしこ。

てな具合に、
急に静かになった嵐山で各々がそれなりに相変わらずでございます^^

おがちゃんが写経に行ったということもあり、
意外と皆さんも知っているようで知らない、
「般若心経」の訳を載せてみたいと思います。

ワタクシは世界中の人々が
「相対性理論」と「般若心経」を理解した時、
とてもシアワセなことが起こると信じています^^☆
(言わんとするメッセージは同じに思えるのです^^!)


「般若心経」の訳

私はこのように聞いています。
お釈迦様が大勢の出家した弟子達や菩薩様達と共に王舎城の霊鷲山にいらっしゃった時、
お釈迦様は深い悟りの瞑想に入られました。
その時、観音さま(観自在菩薩)は深淵な“智慧の完成(般若波羅蜜多)”の修行をされて次のように見極められました。
人は私や私の魂というものが存在すると思っているけれど、
実際に存在するのは体、感覚、イメージ、感情、思考という一連の知覚・反応を構成する5つの集合体(五蘊)であり、そのどれもが私ではないし、私に属するものでもないし、またそれらの他に私があるわけでもないのだから、結局どこにも私などというものは存在しないのだ。
しかもそれら5つの要素も幻のように実体がないのだと。
そして、この智慧によって、すべての苦しみや災いから抜け出すことができました。
お釈迦さまの弟子で長老のシャーリプトラ(舎利子)は、観音様に次のように尋ねました。
「深淵な“智慧の完成”の修行をしようと思えば、どのように学べばよいのでしょうか?」 
それに答えて、観音様はシャーリプトラに次のように説かれました。

「シャーリプトラよ、体は幻のように実体のないものであり、実体がないものが体としてあるように見えているのです。
体は幻のように実体のないものに他ならないのですが、かといって真実の姿は我々が見ている体を離れて存在するわけではありません。
体は実体がないというあり方で存在しているのであり、真実なるものが幻のような体として存在しているのです。
これは体だけでなく感覚やイメージ、感情や思考も同じです。
(つまり、私が存在するとこだわっているものの正体であるとお釈迦様が説かれた「五蘊」は、小乗仏教が言うような実体ではありません。)
シャーリプトラよ、このようにすべては実体ではなく、生まれることも、なくなることもありません。
汚れているとか、清らかであるということもありません。迷いが減ったり、福徳が増えたりすることもありません。

このような実体はないのだという高い認識の境地からすれば、体も感覚もイメージも連想も思考もありません。
目・耳・鼻・舌・皮膚といった感覚や心もなく、色や形・音・匂い・味・触感といった感覚の対象も様々な心の思いもありません。
目に映る世界から、心の世界まですべてありません。
(つまり、お釈迦様が説かれた「十二処」は小乗仏教が言うような実体ではありません。)
迷いの最初の原因である認識の間違いもなければ、それがなくなることもありません。
同様に
迷いの最後の結果である老いも死もないし、老いや死がなくなることもありません。
(つまり、お釈迦様が説かれた「十二縁起」のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではなく生まれたりなくなったりしません。)
苦しみも、苦しみの原因も、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もありません。
(つまり、お釈迦様が説かれた「四諦」のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではありません。)
知ることも、修行の成果を得ることもありません。また、得ないこともありません。

このような境地ですから、菩薩様達は“智慧の完成”によって、心に妨げがありません。
心に妨げがないので恐れもありません。誤った妄想を一切お持ちでないので、完全に開放された境地にいらっしゃいます。

過去・現在・未来のすべての仏様も、この“智慧の完成”によって、この上なく完全に目覚められたのです。

ですから知らないといけません。
“智慧の完成”は大いなる真言、大いなる悟りの、最高の、他に比べるものもない真言であり、
すべての苦しみを取り除き
(取り除く真言であり)、偽りがないので確実に効果があります。
さあ、“智慧の完成”の真言はこうです。

「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」
(智慧よ、智慧よ、完全なる智慧よ、完成された完全なる智慧よ、悟りよ、幸あれ。)

シャーリプトラよ、深淵な、“智慧の完成”の修行をするには、以上のように学ぶべきなのです。」
この時、お釈迦様は瞑想を終えられて、「その通りです」と、喜んで観音様をお褒めになられました。
そして、シャーリプトラや観音様やその場にいた一同をはじめ、世界のすべての者達はお釈迦様の言葉に喜びました。

以上で“智慧の完成”の神髄の教えを終わります。



追伸
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夢を阻むもの。

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ここ数年、NHKの朝ドラを見る習慣がついています。

2006年下期の「芋たこなんきん」からなので、
かれこれ……4年ほどになるのでしょうか^^;
 
現在放映中の「てっぱん」。
これはなかなか面白いのです。
 
1週間に約1回、
富司純子演じる主人公のおばあちゃんが「エエこと」言うのです☆
 
昨日はそんなに感動的なシーンではなかったのですが、
京野ことみ演じる?のぞみ?が、おばあちゃんに一言お灸をすえられるシーン。。。
 
のぞみが、主人公であるお好み焼屋さん店主あかりちゃんに、
経営的アドバイスをするわけです。
「この店のコンペティブ・エッジはなんなの!?…(中略)…
店のコンセプトがブレ過ぎ!(店の)名前は『おのみっちゃん』なのに、
出てるのは大阪のお好み焼きばかりじゃないの!」と。。。
「そういう行き当たりばったりのやり方がブレてるっていうの!」と詰め寄るのぞみさん。
そこで!
出ました!!
おばあちゃんのキツーイ一言><
 
「店の事は店の主(あるじ)に任せて、アンタは自分のこと考え!」
 
そして、とどめに!!
 
「ブレてるのはそっちと違うかっ!!」
 
 
のぞみは、
婚約破断になり、会社を辞め、傷心の中、
亡き母親の思い出の場所であるお好み焼屋(旧名ちはる)に転がり込んできたという設定。
そこで、
自らの存在を示すため(役に立つため?)に、
あれこれと口出しをしているという設定です。
 
この設定を、
いろんな立場で見ることができるのでしょうね。。。
 
親になろうとする立場、
子を持つ親の立場、
サラリーマンという立場、
商店主という立場、
おばあちゃんという立場、
……様々な立場と、様々な観点。
 
 
そういう意味では、
ワタクシの中では、まだまだ“のぞみちゃん”の立場に自分を投影する自分が居ます。
 
「こんな態度、やっちゃうだろうなぁ」
「こんな風に言ってしまうだろうなぁ」
「小難しい事言って、相手の承認を得ようとするだろうな」
「頼らせようとするだろうな」
「あなたの下ではないと誇示するだろうな」と。。。
 
 
相対性に生きる自分に気付きます。
自分が社会の中のどのポジションに位置付けていて、
それは社会がどのように評価をつけてくれるのか。。。
 
そんな中、
おばあちゃんはシンプルに言ってくれます。
「ブレてるのはアンタや!」と。
 
言葉遊び、ビジネスゲームの中の「ブレ」。
人生を生きる上での「ブレ」。
 
 
 
 
 
「やりたいこと」とは何なんでしょうか。
「シアワセ」とは何なんでしょうか。
 
 
 
混沌に生きる、
すなわち、悩むのはとっても楽なことです。
悩みがあるほうが楽なんですよね^^;
 
 
悩み、混沌とは何か?
その最中に居る時は、
「やりたいこと」「やるべきこと」をやれない理由を様々につくります。
時間がない。
お金がない。
協力者が居ない。
魅力がない。
向いてない。
能力が無い。と。
 
ほとんどの場合は、
「やりたいこと」とセットで持ち合わせるようにしていますね。
一番怖いのは
「やりたいこと」が無くなることだと知っているからです。
 
たとえるならば、
言い訳を先に作って、
「憧れの人に告白しない」みたいなものなのでしょうか><
 
構造は、
夢は持っていたいけど、
夢を失うのが怖くて、
だから!
追いかけることはしません。
なぜなら、
お金、時間、協力者、適性がないからです。
 
という理路なわけです^^;
そりゃ、混沌です><
エッセンスだけ取り出すと、ワケわかんないです(汗)
理路、方程式としては成り立ちにくいから、悩むわけですね。
しかも悩んでいる間は、
「失う」「失うかもしれない」という恐怖にたどり着くことなどないわけです。
 
参考までに、
単純な方程式上は、
「追う」ことがなければ「辿りつかない」はずです。
 
要するに、故に、失望よりも混沌を選択しているわけです。
 
さて、
ここで自分に面白い質問を投げかけてみるわけです。
※「夢を追うと時間がなくなりますか?」
※「夢を追うとお金がなくなりますか?」
※「夢を追うと協力者がなくなりますか?」
※「夢を追うと能力が下がりますか?」
※「夢を追うと適性が減退しますか?」と。
 
※ちなみに「夢」は何事にも替え難く大好きなことで、
叶えば何も要らないと思えるパラダイス的なモノ・コトと定義しましょう。
 
どうですか?
「」の質問に対して、何らかの感情が生まれましたか?
 
この中で、積極的な答えを導き出せない項目に対して、
もしかしたら、
夢に対峙するにあたっての(自分の)弱みがあるのかもしれません。
そこにとってもしつこい思い込みがあるのでしょうね。
だから、フリーズしてしまいます。
だから、抵抗・反抗・反攻したくなります
 
面白いと言っては、
混沌の中に居る人に怒られるかもしれませんが、
その項目に引っかからない人から見れば、
「なんでその項目にそんなに消極的、悲観的なの?」となります。
 
 
 
 
ゴールは何か。
どこに向かえばいいのか。
そのために何をすればいいのか。
ココとソコにはどれだけの道のりがあるのか。
今、何をやるといいのか。やらねばならぬか。
今日、何から始めればいいのか。
 
 
これは、
極めて単純な方程式と言えそうです。
 
 
 
自分の夢を叶える。
そのために人の夢を叶える。
人の役に立つことで、自分もHAPPYになれる。
は、成り立ちます。
が、
人の役に立っていても、
必ずしも、自分の夢が叶えられるわけではない。
 
この方程式は、
どんな「仕事」にも当てはまります。
"人の役に立つ"ということを「夢」にするとついついゴール(=自分の夢)を見失いがちです。
 
しかしながら、
「私は本当の!本当に!!人の役に立つことが夢なのです。幸せなのです」
「ゴールは具体的にはないのですが、喜んでもらえるのが嬉しいのです」と、
思い込んでしまいがちです。
 
本当にそうなのでしょうか?
 
なぜならば、
「他人が本当に喜んでる」「本当に他人の役に立つ」が、
自分自身に本当に分かるのでしょうか?
どうして"役に立った"と云えるのでしょうか。。。
 
そこで!
おばあちゃんの
「ブレてるのはそっちと違うかっ!!」
「あんたな、自分のことも面倒見れへんくせに、人の事にやいやい口出さんとき」
と、なるわけです。
 
要するに、
他人から「シアワセを頂く」=役に立たせてもらう、喜ばせてもらう、
という依存になっているとも言えるわけです。
 
やはり、
ワタクシには、
それは「ゴール」でも「夢」でもない、と思えてしまうのです。
「夢」は誰にでもあります。はい、必ずあります。
絶対的な一つを創り出すことが出来るはずです。
 
これが出来ない、もしくは無い、もしくはいっぱい有り過ぎて…というなら、
それを阻んでいる、自ら阻ませている原因があります。
先ほどの5つの※質問を自分に投げかけてみると、
そのヒントが得られることでしょう。。。
 
夢を、
その原因とセットで見えなくさせていると言えるのではないかと思うのです。
 
 
……いやぁ?長いですね^^;
よく聞かれるのです!
「あのブログ、どれくらいの時間かけて書いてるんですか!?」って><
読んでくださってる皆さま、
ありがとうございます!
もうしばしお付き合いを^^/
 
 
話は戻りますが、
さきほどの、主人公あかり、のぞみ、おばあちゃんの3人のやりとりのシーン後、
あかりと、おばあちゃんの2人の会話シーンに移ります。
 
ば「アンタ、あの人(のぞみ)のお腹の子、どない思てる?」
あ「あ、うぅぅ…」
ば「自分と重ねてないか!?」
ば「やめとき!それは別の話やっ!」
ば「あの人、母親になる気あらへんわ」と。
 
 
ここでも、いろいろと考えさせられるシーンが展開されました。
「親になるということ」なのでしょうか。。。
いや、むしろ、
「別の話や」という台詞に、
このシーンのメッセージがあるように見えました。
はい、もちろん!ワタクシの観点(独自)です。
 
 
 
重ね合わせるという行為。。。
 
 
  
 
子にとっての親。
親にとっての子。
 
 
関係性は様々ですが、
ヒトの子は、親から絶大な影響を与えられる生き物です。
数ある生物の中でも稀なる存在です。
 
 
またの機会に、
記したいと思います^^;
 
peach
 

あけましておめでとうございます。
本年も何卒!ヨロシクお願い致します^^ 

新年明けて、新たな気分で毎日を過ごしております♪
これも、この年末、少しの休暇をいただいたおかげかなと^^;
 
おかげさまで年末は久々にゆっくりとテレビを見ました。
ニューイヤー駅伝、箱根駅伝、大学ラグビー、ライスボール......
どれもこれも感動!!!
やっぱりスポーツはいいですね☆
 
そんな中、
結構面白かったのは「朝まで生テレビ」でした。
テーマは「日本を萎縮させたのは何か」。
 
まず最初に面白かったのは、
パネラー。その中でも比較的若年の人たちの態度。
一様に「もうこの進め方やめませんか」「この形式での議論は古い」...的な白けた雰囲気。
そして"twitter連動討論"と銘打たれた企画をも一蹴><
のっけから嘲笑で始まった番組。どうなることかと...^^;
 
その中でも興味深かったのは、
「世論」とか「民主主義」とか「世間」とか「一般」という"コト"の捉え方でした。
 
さてさて、
世の中は大きく変化したと云われてはいますが、
社会というか、とくにメディアの大きな枠組みはさほど変化したようには思えません。
マクロで評論すると、
「多くのソーシャルなメディアは出てきたが、許認可マスメディアは従来のママ」です。
多くのソーシャルなメディアは、
産業界には大きなインパクトを与えました。
 
今の「不況」ということばで表現している社会変化そのものでもあります。
ワタクシには不況という風には感じさせませんが。。。
ですが、
旧態依然としたシステムのまま動いている業者には「不況」となるのでしょう。
今までのやり方(システム)では、
これまで通りには業績を残せないのは当然なのではないかと思ってしまうのですが。。。
 
話を端折ってしまうのですが、
この先、好況感を味わうことなどできるのでしょうか。
というよりも、
「どういった人が好況感を味わうことができるのでしょうか」と問うた方が正確ですね。
 
もし、
お金が手元に多くあることを「好況感」と定義するならば、
歴史上、最高の環境にあるわけです。
地球上に出回っているお金の量は地球史上最大なわけです。
もちろん人口も増えているので、
ひとりあたりの分配量は、貨幣の増加量の角度とは違いますが、
ですが、
貨幣は複利で増えていきますから、
どんどん一人当たりの期待貨幣享受量は増えていくとも言えなくはありません。
 
はい、減る事はありません。絶対に。
ただし、今の金融システム(中でも金利システム)が崩壊しないという前提ならばです。
 
ビルゲイツのように資産数百億の人が受け取る利息は、
年利1%でも数億円になるわけです。
預けているだけで、預かった銀行は数億円をビルゲイツの為に用立てしなければなりません。
仮に100億円なら利息の1億円を用立てるために、
銀行は年間で数億円の利子収入を得るために、人により高利に貸し出すわけですね。
ビルゲイツさんはそんなことはないかと思いますが、
100億円持っていれば、生産せずに生活費に年間2000万円使っても8000万円貯蓄され、
今度は1008000万円に利息がつくわけです。次年には180万円となります。
こうして資産はどんどん膨らんでいくわけですね。
同時にお金の量をどんどん増やしていかねばならなくなるわけです。
 
このように、世のには「お金を担保にお金を増やす」というしくみがあります。
これを直接的もしくは間接的に誰しもがやっていることになります。
 
要するに、
産み出し、増やし続けなければならないのです。
 
このしくみは果たして未来永劫持続可能なのでしょうか。。。
 
世界で起きている「不況」や「金融破綻」という現象は、
このしくみに対する警鐘なのではないかなと思ってしまうのですが......
 
さてさて、ところで、
「不況」を感じるのはどんな人なのでしょうか?
さきほどは自らを「旧態依然」と感じてない人なのでは、と投げかけました。
「不況」を感じてない人は前述のように存在はしているのです。
(いや、感じてるかもしれませんがね^^;)
 
こうした変化は、何も"お金"の領域に限った話ではないのではないかと。。。
情報という分野では少々先に変化が起こっているのではないかと感じます。
 
これまでは、
一部の人だけが知りえる情報を担保に、
権益を受け取ってきた時代でした。
ソーシャルメディアの発達によって、多くの人が高いレベルで情報を共有し、
権益を保持するための情報でさえリークされる時代になり始めています。
おそらくこの流れはもう止められないでしょう。
簡単に言えば、
政治家や官僚の既得権は崩壊しつつあり、
彼らは公僕として元の鞘に収まる事になります。
企業トップも、
偽装や隠滅による公益搾取が出来ない、すなわち社会があって自らが成り立っている事を
鮮烈に気付くことになるわけです。
 
このように「情報」と「金」の市場(社会)成熟度には差が出てしまいました。
同じように、
これはソーシャルなメディアの出現(=新たなシステム)が引き起こすわけですが、
変化には大きな差が生まれています。
情報分野においてはびっくりするほどの速さで変化が起こりました。
 
それはどうしてなのでしょうか?
 
単純に、
人は「情報」という"モノ"を軽んじてきたからでしょう。
いや、
情報というものを理解してなかったというか、
見えないものが故に、"モノ"として捉えきれなかったということなのでしょう。
ゆえにここには権益というものが存在してなかった。。。
とも言えそうです。
 
これらの行きつく先は、
どんなしくみやカタチでもって落ち着く事になるのでしょうか。
 
情報(分かりやすく言うと秘密)をストックすることによって権益を得る、
という単純なしくみが崩壊するのです。
 
世の中はヒエラルキーからフラットに限りなく近づくことになります。
情報の偏差によって生まれてきた益は、
経済のクモの巣理論と相まって、
富さえもヒエラルキーからフラットになり、
景況感はタテの流れに依るものから、ヨコの流れに依る、
すなわち量からスピードの時代になることは明白です。
 
情報と金というのは切っても切れない仲というわけです。
しかしながら、
権と益は一時的な恋仲みたいなものなわけですね^^;
 
あっ、ちなみにワタクシは社会主義啓蒙者ではありませんw
 
 
「情報化社会」という言葉を耳にして久しいですが、
この究極は何を指し示しているのでしょうか。
先ほどもフラット化した社会ということについて触れましたが、
ソーシャルコンピューティングの最終形は「社会化脳」の外部表現形です。
コンピュータ単体は「脳」の外部表現形であることは言うまでもありません。
それをネットワーキングするということは、
「他人の脳をのぞき見できる」ということです。
いわゆるP2P化です。
 
まだまだ人類の"慣れ"はそこまで行ってはいないので、
徐々にその方向に進んで行くでしょうが、
"知りたい、知って欲しい"の明るい部分を頼りに進化していくことになるでしょう。
 
例えば、
"これこれこういうことで困っている人"が誰の目にも見て分かるようになり、
それを"こんな風に助けた"があからさまになります。
どこで誰が何をしたか、しているか、
なんてことがどんどん分かるようになることでしょう。
こんなことは今でも既に可能ですね!
 
この先、人と人の繋がりは深くなっていきます。
 
何に時間を費やす事が賢明なのでしょうか。
すなわち、何を得る事がシアワセの量を増やしてくれるのでしょうか。
 
 
選択の自由から、自由へ。
 
 
情報格差がなくなると、
権益が少なくなるので「寄らば大樹の陰」的な風習は影を潜めていくでしょう。
帰属する単位が変化しそうです。
現在ではなかなか越えられない、
・人種の壁
・言語の壁
・国という地域的な壁
・企業とか組織の壁
などなど、物理的な壁が存在しますが、
これらを隔てている壁が限りなく薄くならざるを得ません。
 
人と人がしくみで繋がる時代から、
"嗜好""思い"などで繋がる時代へと徐々にシフトしていくでしょう。
 
いえ、
元々はそうだったんです><
だから回帰するといった方が正しいかもしれませんが、
中身的にはやはり違う。
人と人が繋がる限界をしくみでカバーした歴史が、
テクノロジーによって、限界を打破したわけです。
 
そう!
これが「脳」が為せるワザなんですよね。
スゴイ!!!としか言いようがありません><
 
人が考え付く事はなんだって出来てしまうのが脳なんです。
 
しかしながら、
考え付かない事は脳だって出来ない。
言葉遊びのようですが、
ある意味重要かつ当たり前の話なんですね。
 
 
 
 
【さわける】動詞
ジョグカフェmusubi一家のとある男性(通称サワケン)が、
身の丈に合わない大きな目標を掲げ、周囲の嘲笑と応援に応えつつ、
日々の努力の末に目標達成する。
大きな目標を掲げ挑戦し達成して喜びを感じる一連の行動を称える様を指す。
 
 
 
 
今年もmusubiは大いに"さわけて"いきたいと思います^^/
身の程知らずこそ、
自分への最大級の賛辞と受け取って、
やってくる未来ではなく、
創る未来にしたいと思います☆
 
 

マン・イン・ザ・ミラー


I'm Gonna Make A Change, For Once In My Life
It's Gonna Feel Real Good, Gonna Make A Difference
Gonna Make It Right . . .


変えてみるのさ 一生に一度
本当に清々しい気分だろう
一歩踏み出すのさ 正しい方向へと


As I, Turn Up The Collar On My Favourite Winter Coat
This Wind Is Blowin' My Mind
I See The Kids In The Street,
Without Enough To Eat
Who Am I, To Be Blind?
Pretending Not To See Their Needs
A Summer's Disregard,
A Broken Bottle Top
And A One Man's Soul


お気に入りのコートの襟を立てても
心のなかへ冷たい風が吹いてくる
路地裏で生活する子供たち 食べるものも十分にない
盲目を演じる僕は一体誰なんだろう?
彼らに必要なことを見て見ないふりするなんて
夏の容赦ない陽射し 壊れたボトルの蓋
そして、一人の男の魂


They Follow Each Other On
The Wind Ya' Know
'Cause They Got Nowhere To Go
That's Why Now I Want You To Know


彼らは風のままに漂って
お互いを追っている、わかるかい
どこにも行き場がないからさ
だから今、君にも知ってほしい


Chorus:


I'm Starting With The Man In The Mirror
I'm Asking Him To Change His Ways
And No Message Could Have Been Any Clearer
If You Wanna Make The World A Better Place
(If You Wanna Make The World A Better Place)
Take A Look At Yourself, And Then Make A Change
(Take A Look At Yourself, And Then Make A Change)
(Na Na Na, Na Na Na, Na Na, Na Nah)


コーラス:


僕は「鏡の中の男」と一緒に始める
心を改めてみないか、とそいつに問いかける
どんなメッセージよりもわかりやすいだろう
もし君がこの世界をより良くしたいなら
自分自身を振り返ってみよう
そして自分から変わるんだ


I've Been A Victim Of A Selfish Kind Of Love
It's Time That I Realize
That There Are Some With No Home, Not A Nickel To Loan
Could It Be Really Me,
Pretending That They're Not Alone?


僕はずっと自己中心的な愛の犠牲者だった
でも今、気づかなくては
世の中には家もなく、借りるための5セントさえ与えられない
人達がいるってことに
彼らが孤独じゃないと片付けるなんて
それは本当に僕なのか?


A Willow Deeply Scarred,
Somebody's Broken Heart
And A Washed-Out Dream (Washed-Out Dream)
They Follow The Pattern Of The Wind, Ya' See
Cause They Got No Place To Be
That's Why I'm Starting With Me (Starting With Me!)


深く傷ついて寄る辺もない人
粉々にされた心 そして色あせた夢
彼らはその時々の風を追って彷徨うんだ、見えるだろう
彼らには居場所がないからさ
だから僕は、僕自身から始める

Chorus×


I'm Starting With The Man In The Mirror,
(Man In The Mirror-Oh Yeah!)
I'm Asking Him To Change His Ways
(Better Change!)
No Message Could Have Been Any Clearer
(If You Wanna Make The World A Better Place)
(Take A Look At Yourself And Then Make The Change)
(You Gotta Get It Right, While You Got The Time)
('Cause When You Close Your Heart)
You Can't Close Your . . .Your Mind!
(Then You Close Your . . . Mind!)


僕は「鏡の中の男」と一緒に始める (鏡の中のその男!)
心を改めてみないか、とそいつに問いかける (より良く変われと)
どんなメッセージよりもわかりやすいだろう
もし君がこの世界をより良くしたいなら
自分自身を振り返ってみよう
そして自分から、変わるんだ
正すんだ、まだ時が経たないうちに
なぜなら心を閉ざしても
魂には嘘をつけないのさ
そして、君は自分の魂とぴったり寄り添うのさ


That Man, That Man, That Man, That Man
With That Man In The Mirror
(Man In The Mirror, Oh Yeah!)
That Man, That Man, That Man
I'm Asking Him To Change His Ways
(Better Change!)
You Know . . .That Man
No Message Could Have
Been Any Clearer


そいつだ、その男、鏡の中のその男
そいつに「やり方を変えてみよう」と語りかけるのさ
(もっと素晴らしく変わるんだ!)
わかるだろう、その人だ
どんなメッセージよりもわかりやすいだろう


If You Wanna Make The World A Better Place
(If You Wanna Make The World A Better Place)
Take A Look At Yourself And Then Make A Change
(Take A Look At Yourself And Then Make A Change)
Hoo! Hoo! Hoo! Hoo! Hoo!
Na Na Na, Na Na Na, Na Na,
Na Nah
(Oh Yeah!)
Gonna Feel Real Good Now!
Yeah Yeah! Yeah Yeah!
Yeah Yeah!
Na Na Na, Na Na Na, Na Na,
Na Nah
(Ooooh . . .)


この世界をよりよくしたいなら
自分自身を振り返って
変えてみるんだ
もっと清々しい気持ちになろう
そうだ、そうだよ


Oh No, No No . . .
I'm Gonna Make A Change
It's Gonna Feel Real Good!
Come On!
(Change . . .)
Just Lift Yourself
You Know
You've Got To Stop It.
Yourself!


僕は変えてみせる
本当に清々しく生きるのさ
一緒に来い!
君自身を激励するのさ
わかるだろう
もう、無視することをやめるのさ
君自身を!


(Yeah!-Make That Change!)
I've Got To Make That Change,
Today!
Hoo!
(Man In The Mirror)
You Got To
You Got To Not Let Yourself . . .
Brother . . .


そうだ、変えるんだ
僕は変えてみせるさ、今日!
(鏡の中の男)
自分をあきらめちゃ駄目なんだ
兄弟よ


Hoo!
(Yeah!-Make That Change!)
You Know-I've Got To Get
That Man, That Man . . .
(Man In The Mirror)
You've Got To
You've Got To Move! Come
On! Come On!
You Got To . . .
Stand Up! Stand Up!
Stand Up!


そう、変えるんだ!
わかるだろう、僕はその男をつかまえた
その男を、鏡の中の男を・・・
君もやるのさ
君も動き出すんだ!一緒に来い!
君も立ち上がるんだ
立ち上がるんだ!
立ち上がるんだ!


(Yeah-Make That Change)
Stand Up And Lift
Yourself, Now!
(Man In The Mirror)


そう、変えるんだ
立ち上がって、君自身を生きるんだ、今!
(鏡の中の男)


Hoo! Hoo! Hoo!
Aaow!
(Yeah-Make That Change)
Gonna Make That Change . . .
Come On!
(Man In The Mirror)
You Know It!
You Know It!
You Know It!
You Know . . .
(Change . . .)
Make That Change.


そう、変えるんだ
おいで!
君はもうわかってる!
君はもうわかってる!
君はもうわかってるはずだ!
君自身から・・・
変えるんだ!

おっとっと。。。

 
なんと、もはや12月師走ではございませんかーっ><
ブログ…気になりながらも…更新できずにおりました。
 
大好きな久米島マラソンに行ったことも、
嵐山の紅葉が未だ素晴らしいことも、
まるで書けてなーい!
 
MOTTAINAIの極みです。
 
しっかし世界情勢激動の1年でしたね。
まだ終わってませんが、いろいろございました。
そのひとつとして、
「同窓会」がありました^^;(私にとっては立派な世界情勢w)
 
25年ぶりの大同窓会。
同窓生は約320人。
今回は約170人が集まる事が出来ました。
 
イベントの中で、
「残念ながら、来たくても、会いたくても会えなくなった人が居ます。
名前は読み上げませんが、その数名の方々を想い出しながら黙祷を…」
というメッセージに”ハッ”とさせられました。
 
 
・・・・・・今一度、心から御冥福をお祈りしたいと思います。。。
 
 
 
 
 
 
 
さて、同窓会。
 
【同窓会】(名)同窓の人たちの親睦のための団体。また、その会合。

これって”踏み絵”だなぁ?なんて思ったり^^;

行きたいから行く。
行きたくないから行かない。
行きたいけど行かない。
行きたくないけど行かねばならない。

表舞台裏では、
気の置けない仲同志間で様々に思いの交換がされます。
しかしながら、
この4つの思考パターンにはそんなに差はないのでしょうね。
 
そんなことよりも、同窓会という場でかなりの頻度で交わされる言葉に、
「変わってないなぁ」と
「○○になったなぁ」=要するに「変わったなぁ」という言葉。
 
これは興味深いです。
どこから(誰から)、
何を、何と比較して、そう言っているのか……
 
今回、約25年ぶりに再会したという間柄もあります。
人生の半分以上。
物心がついてからを換算すると……人生の大半会ってなかった人との再会だったりします。
 
変わった、と言われるのが嬉しいか、
変わってない、と言われるのが嬉しいか、
どちらでしょ^^;
 
誰しもが、
頭の中で「これはこう」「これはこうあるべき」「これはこうあって欲しい」という物語をつくります。
はい、これは現実ではなく、
明らかに物語です。
 
脳は、
情報が十分に無い状況を打開するために(不安を解消するために)、
“推測”という技術をもって、
情報を補填して、気持ちの落ち着きどころをつくりあげるクセを持っています。
またそうするようにクセづけられています。長年の教育で。
 
基準とか拠り所というものを作り上げます。
その差異でもって、
五感で感じたものの位置を脳内にプロットします。
分類化するわけです。これが”認識”の実態です。
すなわち相対性です。しかも自分の経験値内相対性です。
あくまでも経験した事以外は認識の範疇にない、という定義での話です。
 
「分かる」ということは、既知であるということです。
しかしながら厳密には、
「分かる」は経験ではなく、推測であることが、
「やる」「実際に行動してみる」ことで気付く事が出来ます。
 
物事の大きな差異は0と1です。
“「行く」「行かない」の理由”の差は差ほどでありません。
目に入る入らない、耳に入る入らない、ほどの差ではないわけです。
 
先に起こる事は分からないわけです。
が、
推測という行為は過去を利用し行われます。
 
これらの理屈がまかり通るならば、
未来の作り様は、如何なるものが望ましいかが分かってきます。
“物語”はどう創る事が自分にとって嬉しい事なのか、が分かってきます。
 
「今」という瞬間や、
「未来」がどういう姿形かは、自分が創る他ないことに気付き始めます。
すなわち……
「思った通りにしかならない」ということです。
 
「いまここにある機会」をどう受け止めるか、
この一事が万事だったりするわけです。
 
どう認識したっていいんです。
どう認識しようが、しまいが、
そんなことは“誠の事実”ではありません。きっと。。。
今自分が”ここ”から”それ”を見ている以上でも以下でもありません。
他己は自己ではないわけです。
今は二度と現れないんですから。
 
子どもが大きな夢を描く事が出来るのは、
過去に囚われないからですね。
ほとんどは身の回りの人(特に親)が邪魔をするわけですが、
放っておけば、子どもは夢に向かって生きていくことでしょう。
「やりたいこと」をやっている時と、
「やりたくないこと」をやっている時とでは、
時間の経過速度が違う、と人は平気で言います。
そんなわけないのに、実際にそう感じます。
 
それをウソと言うか、ホントと言うか……
いやいや、どっちも事実です。
 
生きる事を、
どう捉えるか……
“生きる”は未来に存在する事とも言えます。
“未来”をどう捉えるかは、
自分で決めればいいだけなんですよね。
 
思い通りになるし、
決めた通りになるだけなんです。
 
ただただ、それだけなんですよね^^☆
 
25年という歳月。
四半世紀です。
時間にすると…25年×365日×24時間。
この時間の経過を、
変わったものとすることも出来れば、
変わったものとしないことも出来ます。
本当に出来るのです。
それを、脳が勝手に決める事が出来ます。
はい、自由に決める事が出来るのです。誰からの束縛もなく。
唯一あるなら、自分が自分を束縛する呪縛のみがそうさせます。
 
誠にオモシロイ。
 
そんな自分を宇宙から見る事さえ出来ます。
見てみてください!
自分を「理想の星の、なりたい自分になったと仮定して」
今の地球の日本に居る自分を見てあげてください。
 
その地球上に居る「自分」(らしき)人は、
宇宙に居る自分から見てイケてますでしょうか?
悩みを聞いてあげてみてください。
どんな風にアドバイスしてあげられるでしょうか。
 
これくらいのことは誰の脳でも出来る事です。
脳とはそんな風にある意味現実離れしているヤツなんですよね。
なんだって出来る^^;
(すなわち、脳は自分のカラダを信じてあげてないことが多い。。。「出来るわけないやん」が口癖の人はそうです><)
 
「事実」とはそんなものなのでしょう。
事実らしきもののほとんどは“脳がつくるSTORY”です。
 
アインシュタイン曰く
「空想は知識よりも大切。空想は世の中すべてを呑みこんでしまうが、知識にはおのずと限りがある」
「私たちはいつか、今より少しは物事を知っているようになるかもしれない。しかし、自然の真の本質を知ることは永遠にないだろう」
「知っていること、分かっていることとは自然界のほんのひとかけらにしか過ぎない」とも。
 
そして興味深いのが、
「教育というのは学校で習ったすべてのことを忘れた後に残るものだ」
と言っています。
「間違いを一度も犯したことがない人というのは何も新しいことに挑戦したことがないのだ」とも。
 
 
 
世(自然)を理解することなど出来ない。支配することなど出来ない。
だからと言って、
何もしないというのは、生きるということを放棄している。
生きるということは未来に生存するということ。
未来はどうなるか分からない。
生きるという選択自体、挑戦をすると決めているとも言える。
が、その中で失敗をしてはいけないということ自体が、
まるで「アクセルを踏みながらブレーキを踏んでいる」が如くであります。
 
我々は「自由」なのです。
「自由」と「制限」は対を成します。
「してはいけないこと」をしてもよい、のではなく、
「したいこと」を「する」という選択が単純に純粋に出来るようになりさえすればいい。
そして、
それを「他」のせいにするという「他者への依存」から(○○だから出来ないetc.)、
「自分を信じる」(=カラダと脳を信じる)というとてつもない武器を持った時、
それは初めて!「自分が生きている」という証となるのではないかなと思うのです。
 
 
同窓会。
 
 
過去の自分を清算する機会。
新しい自分をお披露目する機会。
そんな風なことを考えた、長いようで短い1日でした☆
 
 
 
43歳。
残すところあと数年。。。
 
 

 

「高速で進む物体の中では時間は遅れる」
 
聞いたことがあるかもしれませんが、
アインシュタインが発表した相対性理論の中でのメッセージです。
 
「猿の惑星」という映画がありました。
宇宙船に乗った人類が、とある星に不時着します。
その星では、猿が文明をつくっています。
猿中心の社会です。
その星には「禁断の地」があります。
不時着難破した人類は、そこに足を踏み入れます。
そこには……
 
朽ち果てた自由の女神像が横たわっている、、、
 
と、まぁ、ザっとのあらすじです。
 
この映画のメッセージをどのように読みますか?
 
 
先日、久しぶりに遠出(とは言っても岐阜県)しました。
昔は仕事柄、毎週のように新幹線で移動し、
月に一度は飛行機で日本国中をウロウロしていたものですが。。。
 
JR岐阜駅から金華山岐阜城に向かう国道256号線が目の木通り。
近代的ですが、決して背が高いとは言えないビルの間に、
未だに残る昭和風情の商店。
国道と垂直に交わる路地はアーケードのせいか、急に立ち込めた雨雲のせいか、やや薄暗い。
5分後に降りだす通り雨を、察知させてくれたのどの渇きが導いたのは、これまた昭和な喫茶店への扉。
アイスコーヒーは350円。しかも駄菓子が4種付。
夕立の雨宿り風情を満喫させていただきました。
 
用を済ませ、
再び、新幹線に飛び乗り、同窓会のお手伝いのためのミーティングに参加。
様々な会話の中で…
とある同級生の発言。
「サラリーマンはすごいよね!」
「とくに東京で働く人らはちゃんとしてるよね!」
「ポイントをまとめる力があるし、要点ついて説得力がある話し方するよね」と。
はい、この方もご実家を継がれる前は列記としたビジネスマンであらっしゃられました(笑)。
 
 
アインシュタインの世界観。
東京をはじめとする大都市での世界観。
そして、一部の大都市以外の多くの地方市町村の世界観。
 
……どれもこれも現実。
 
何が何のために、なぜ必要なのか。。。
 
我々は地球に生まれ、地球で死ぬ。
仮に宇宙船に乗っても、帰ってきた場所が地球であるならば、
地球の時間軸で一定の時間を要して死ぬことになります。
 
視点が今どこにあるのか、
これは大変重要な観点であす。
 
例えば、
「今よりももっと多くの収入が欲しい」と感じたとする。
それを導く状態、すなわち現実があったとするわけです。
そして、この状態を何に起因するかを自己で分析したとき、、、
その結果、これを
枯渇と認識するか、不安と認識するか、現象をどいう現実と見做すか、大きな分かれ道となります。
(究極的にはどちらでもいいのですが。。。汗)
 
重要なのは、この分類化という作業。
多くの場合、人は不安を感じると緊縮の方向に進み、
枯渇の場合は拡張に向かいます。
 
今の収入を招いているのは、今の言動がそこにあるからです。
枯渇感の方をより多く感じる人は、
自分の可能性や、想像する未来の自分像と比較して「足らない」と見ているからでしょう。
不安感を多く感じる場合は、
将来自分を取り巻く環境の可能性や、想像する未来の環境と比較して「足らない」と見ているからでしょう。
 
いずれにしても仕方ない話ではあるのだが、
前者の場合は、自分を変えることで充足することへ迎うことが出来ます。
が、
後者の場合、環境というとてつもない大きなものを自分の手で変えない限り、
充足するためには、偶然を願うしか手はなさそうです。
 
○○感というのは、
実態がなければ、基準もない。
しかしながら、我々の行動はこの○○感に大きく左右されます。
翻弄されるわけです。
 
「こういう時は、こうしなさい」というマニュアルの存在(教制=教え込み)が、
脳の柔軟性を失わしているとも言えそうです。
 
「でなければならない。。。」
 
分類化しかり、
教制しかり、
信念しかり、
これらは、分からない未来に対する信じ込みという自翻弄とも云えます。
不安を枯渇に変えることによって、
萎縮、緊縮、膠着を拡張に変化させていく作業であります。
 
安易な自己啓発やコーチング、
カウンセリングなどはこの類にあたります。
 
その時は高揚するわけです。
やる気にみなぎるわけですが、
一方でなくてはならないものを作ってしまっている。。。
と、なります。
 
 
「でなければならない」という思考の出現は人らしさを蝕みます。
そもそも、
人を含め、生物は自由なのです。
どう生きてもいい、という権利を有しています。
他者のどう生きてもいい、とぶつかることはあっても、
人のどう生きてもいいについてアレコレ言うのは、
すなわち、
自分のどう生きてもいいを放棄し、
挙句、自由に生きる人へのを阻害することで、
自由度の絶対的差異の距離を縮めようとする行為にほかなりません。
他者の自由を拘束することで、自らの相対的自由度を増すという行為にほかなりません。
 
他人への口撃の強度は、
自分の愚かさの度合いに比例する、ということです。
自分が自由でない、自由という権利を使いきれない、という落胆度、
もしくは遅れている具合を、
他者を誹謗中傷することで、他者の社会的相対評価を落とすことを画策して、
自分との差を埋める行為にほかなりません。
(相手の評判を悪くすることで、自分の価値を高めようと画策するの意)
 
と、まぁ、
これもどうでもいい話なのですが^^;
 
 
「どこから、その対象物を見るか」
によって、その見え方すなわち評価は変化します。
評価とは現実(≠事実・真理)と云われるものに似ています。
ですが、見る位置によって違う現実は、
事実とは異なります。(と定義しましょう)
だって、
高速船の中では時間は遅れるわけですから。
 
時間でさえも、
絶対ではない。
 
さて、
どこから今の自分を見ましょうか?
過去の自分から今の自分を見る経験は誰しもが試みることですね。
「昔の自分ではあり得ないことだわ!」とか、
「まさか、こんな人を好きになるとは思ってもいなかったわ!」などと。
これが出来るということは、
または、この自分の行為にとっても納得しているならば、
未来から自分を見ることも可能となります。
 
さて、
夢を叶えた自分は、
今の自分を見てどんなアドバイスをしてくれるのでしょうか。
満ち足りた自分は、
今の自分に対してどんなことを言ってくれるのでしょうか。
 
 
自分にとって、どうあることが最幸なのか。
幸せの軸は自分で決める
ことは、とても重要なことです。
 
シアワセのカタチは、
様々です。
「入学できてよかったね」
「就職できてよかったね」
「結婚できてよかったね」
本当にそうなのでしょうか。。。
本当にそれはイイことなのでしょうか、と真剣に考えてみることは大切です。
イイことではないとは言っていませんよ^^;)
 
様々なんです。
 
シアワセを感じる瞬間をゴールとしたならば、
何を得ることがゴールであるのか。。。
入学や就職や結婚がゴールなのか、
それとも、その先の何かを感じるための環境設定でありプロセスなのか。。。
 
何でシアワセを感じるか、
すなわち、軸は様々で然るべきはずです。
すなわち同様に、
プロセスやカタチも様々であるはず。
 
親が子どもを見る視点については、多くが語られています。
富裕者が貧困者を見る視点については、多くが語られています。
都会が田舎を語る書物は多く散見されます。
 
情報は、いや情報量は公平ではありません。
偏っている、と表現することは差ほど偏ってないと思います。
現に、さきほどの逆の観点から見た(子→親、貧困→富裕etc.)言論にはなかなか出逢えません。
 
誰から何を見ることが真理真実なのでしょうか。。。
 
結局は、見ているその人自身が決めることです。
すべてのことが、そうなのではないかと思います。
そして、ですが、そこには真実などありません。
あくまで事象としての現実がそこにあるだけです。
 
テレビ画面を、我々大多数が見ているテレビ画面のまま見ることが出来るのは、
地球上の全生物のうち、わずかの生物なのです。
あるものには白黒に見えます。
あるものにはもっと多くの色を認識することになり、
あるものには線の束にしか見えず、
あるものには常に2画面状態に見えるのです。
同じ人でさえも差があったりします。
 
すべては、
勝手な決め事に基づき、そうであることがごもっともであるという、
脳の設定値を決めているのです。
そして、その設定値はしばしば予定なく変更されます。
それは一部の人の大きな声によったり、
社会や世間という盾を作りながら、一部の人が意図的にそうするわけです。
(少々うがっているかもしれませんが…^^;)
 
歴史では、戦争でさえ肯定し、
すなわち平和を否定したわけですから。
 
正しい事とはどんなことでしょうか。
間違ってないとはどんなことでしょうか。
 
普遍的にごもっともであることが導きだされない限りは、
いずれにも答えはないということなのかもしれません。
そもそも、
目的になる対象が明確ではないからなのかもしれませんが。。。><
 
 
我々は、
そんなにいうほど難しくない。
物理的に見れば、歴史的に見れば、
単なるDNAを運ぶビークル(乗り物)なのです。
アッ、という間に生まれて、アッという間に死んでいく物体です。
物体としては死んでしまいますが、自らを構成しているDNADNA構成要素は生き続けることがほとんどです。
しかしながらDNAは、DNA単体では生きていくことができません。
それはいかなるDNAもそうなのです。
 
DNAは運んでくれさえすればイイと考えているようです。
しかも「あなたにだけ、わたしにだけ」というわけでもなく、
生き残るために、兄弟や親戚という保険をかけて運んでいます。
 
彼らの壮大な計画の媒介となるのが、生物のカラダという捉え方です。
 
我々のカラダは様々にDNAに支配されています。
 
そこから意識的な部分だけ独立できる脳。
その脳ではDNAの支配から数年間だけ自由自立できる時間を与えられるわけです。
どんな風にでもつくっていける。
コントロールされているようで、
コントロールされなくすることも出来るのです。
DNAと脳、もしくはそれと人体とはそういう関係性なわけです。
とある観点ではそういうことです。
数億年、
こういうしくみ、システムの中で動いているわけです。
 
そして、
その脳に与えられた数年間の生命としての猶予期間を、
色どりを変えながら、あーだ、こーだと言いながら、
自由を謳歌させてくれるわけです。
 
たった数年の命を与えられた脳から見る現実と呼ばれる世界。
数億年のシステムから見る人および脳という生物生命体。
どちらも然りです。
 
あぁぁぁあぁぁぁ???長い長い長い。。。
とにかく文章が長いわけですが^^;
書いている時の時間は止まっているほどに短いわけです。
そしてこれを読んでいる時の時間は…きっと長いですよね、汗。
 
とっても短い人生の相対的価値を高めるには、
相対的価値を高めるにはですよ!
短く感じられることに時間を費やすことが大切なんだろうと思うわけです。
生まれることと、死ぬことには自由は利きません。
選ばないわけですが、それ以外の事は選べます。
いつ生まれて、いつ死ぬかは選べないのです。
(喜んで自殺する人は居ないと仮定すると、この理屈はまかり通るわけです)
 
自由。
 
生命体である間とそうでない間にあるもっとも大きな差は、
自由であるか否かです。
 
すべての「でなければならない」から解き離れた時、
それは、その人の脳すなわち、その人が全人的にその人になれる時であると思います。
それは人間でもなく、唯一無二な人として存在できるのです。
脳は自由ですから、
他者と同化することの難しさを知り、有難さを知ることとなります。
一方で自由であることの真理を知ることになるのでしょう。
 
ルールやシステムは人がつくりだしたものです。
ツールです。
慣習や世間体はルールにも及ばないものです。
時として便利に使えますが、大よそ不必要なものだからルールとはならないし出来ない。
都合よく持ち出すことができるツールです。
ですが、
ツールがゆえに、使わなくたっていいのです。
使わなくても、自由に、楽しく、幸せに時間を過ごすことは可能です。
 
限られた数年という時間。
何を得るために、何をするか。
このシンプルな問いに答えられる生き方をすることこそが、
脳が脳である、脳が脳の役割を果たすことになるのではないでしょうか。
 
ぼくは、
よっしゃ!””やったー!!””ありがとう!!とココロから出る感情表現の回数にこだわりたいです^^☆
スゴイ!””すばらしい!!!の回数も♪
 
 
もし、自分の本当にやりたいことが出来ない理由に
「とはいうものの」という訳が存在していたら、
それは自由であることをDNAに奪われていると思ってもいいかもしれない。
いや、もっと単純に他人に、他人の目に奪われていると言っていいでしょう。
 
他人の人生を生きるか。
自分の人生を生きるか。
 
ぼくは今、自分のことで精一杯です^^
他人に対してとか、他人の自分に対する様々な刺激も、
気に出来るほど余裕がないかもしれません。
 
けど、
信頼できる人、自分を盛り上げてくれる人、自分の愛する人、
そういう人々に囲まれ、授かり与えながら、
自分の自由を謳歌できる人生を満喫しまくりたいと思います。
 
ただそれだけなんです。
長すぎましたね^^;

カラフルライフの創り方。。。
脳を様々な制限から解放し、
脳をやさしく飼い慣らしてあげればいいだけです☆

ここ数日、、、
少し暑さもやわらいで過ごしやすくなりつつあります^^

ココそ!とばかりに、
昨日久しぶりに5kmRUN!

が、しかーしっ><
嵐山から保津川下流に向かった軽い下りは息絶え絶えながらも走ったのですが…
復路は西日を真正面に受け><
はい、バテました^^;

いやーっ、しんどかった。。。

そんな折、
昔の同僚K井ちゃんが遊びにきてくれました♪
結構永いこと同じ部署に居たのですが、
最後の1年はミッチリ(?)一緒に仕事をした仲間☆
関西出身の彼女ですが、普段はTYOセレブ^^
今回はダーリンと一緒にアクティブ京都旅行の合間に寄ってくれました!
今年は久米島マラソンにも一緒に参戦予定。
仕事仲間からRUN仲間に。。。☆ウレシイな^^

そして、今日も、
新潟からはるばるmusubiデビューを果たしてくださった方もおられました!

こうして、
どこぞで耳にしていただいて、
日本全国、世界各国からmusubiを訪れて下さる方があれれることは、
とっても嬉しいことです!

run for one world.
新musubiシャツに書かれた文字が現実と云えるようになる一歩一歩を刻んでいる。。。
はい、まじめにコツコツと歩んでいきたいと思います!!

今日は、musubiに新たなプランが誕生したので、
ご紹介です^^/
曜夜発!musubi週末嵐山合宿プラン】

常連さんからの、
旅人さんからのご要望をカタチにしてみました^^!

京都・嵐山。
知れば知るほど、奥深く、
そして面白く楽しめる場所です。
さすが、平安の世から愛されてきた場所です☆


少しでも長く、
少しでも深く、
京都嵐山を楽しんでいただくために、
ランナーそして、旅人を応援したい一心で考えましたm^^m

詳しくは、musubiスタッフまでお問い合わせください!

W杯南アフリカ大会。

盛り上がりましたよね!ってか、まだ終わってないのですが。
 
サムライJAPANもイイ試合を見せてくれました。
世界のBEST16ですから、
選手の皆さんは大きく胸を張って欲しいですね!
 
そんな中、
各メディアが論評をしていますが、
ひとつ気になったのが「日本選手の走破距離」。
日本はよく走ったと。。。
確かに事実でしょうね。
 
ワタクシもフィールド球技をしていた経験から、
走る、と、走らされる、走れる、それぞれ意味が違う気がします。
いずれにしても観点があるので、
「走れる」=「走ることができた」というのは事実で、
意図的に走り回ったか、
意図されて走らされたか、
真実は闇の中であります。
 
ディフェンシブなチーム戦術を成功させようとすると、
仕掛けてくる相手と同様、またはそれ以上に走ることが要求されます。
一度抜かれても、身を翻して再度ディフェンスに回ることが出来てはじめて、
相手の攻撃を食い止めることができます。
試合は同じ人数でやるわけですから、
1対1のマンツーマンを守り切れれば、点を取られることはありません。
が、確実に止められる確率は50%としたならば、
一度抜かれた相手にもう一度ディフェンスできれば、次は止められるということになります。
すなわち、
「抜かれても、走りなおせば、止められる」わけです。
 
このように幾重にもディフェンスの網をつくっていくことをバッキングと言います。
(たぶん、サッカーでも言うはず)
ボールを支配している相手オフェンスをマークしている味方ディフェンスが「もし抜かれたら」を想定して、フォローをすることを指します。
フォローする選手にもマークしなければならない相手選手が居るわけですから、
マークに50%、バッキングに50%の意識を持っていなければなりません。
 
徹底的に守る、相手に点をやらない、ためには、
一人の相手に2人かけて守るという必要があり、
すなわち、単純に考えると相手の倍の運動量が必要だということになります。
 
「攻めは最大の防御」
 
そんな言葉があります。
すなわち、
上記のおそらく普遍的な稼働システムを、
相手にやらせる時間を多くするか、自らが行う時間を多くするか、
これによって各チームの体力消耗の度合いが違ってくることになります。
 
「体力は消耗する」
 
これは普遍的なシステムです。
 
多く走らされる。
多く走ることができる。
多く走った。
 
それぞれまったく意味の違う言葉であり、
それぞれが原因ともなり、結果ともなります。
 
そんな中、帰国後の記者会見で岡田監督が口にした言葉。
彼の感覚として、彼の言葉として話した内容に少しビックリしませんでしたか?
Q.帰国した感想を
岡田監督「予定より早い帰国になったことを残念に思う。すばらしいチームだったので、できればもう1試合させてあげたかった。出場している選手、していない選手もチームが勝つために、自分たちで考えて、自分たちでプレーした。今まで私が見てきた中でも1、2を争うチームだと思っている。脈々と受け継がれている日本人の魂を持って戦ってくれたことを誇りに思う。われわれのW杯はこれで終わったが、選手はまだまだ前に向かって進んでいかなければならない。私は彼らをずっと応援して、見守ってあげたい
Q.1次リーグで2勝し、ベスト16に進んだ要因は
岡田監督「簡単には分析できないが、ひとつは日本人の良さを生かすということ。ボール際で負けないということを忠実にやりとげた。互角の戦いなら、決定力の差で負けてしまう。これ以上やりすぎたらカウンターでやられてしまうだろうとか自分たちで感じ取って、一戦一戦成長していったと思う」
Q.さらに上を目指すためには
岡田監督「それは環境です。あのW杯の試合のような厳しい試合を積んでいくこと。親善試合じゃなく、本気の試合をたくさん経験させてあげたい。そうすれば彼らは必ず伸びます」
 
 
 
誰もが感じることが出来ない、
岡田監督でしか体験できなかった事実、
そして発する言葉から様々を学ぶことができます。
 
 
そんな折、ふと思い出したのが元日本代表監督トルシエ氏の日本選手評です。
とあるスポーツ紙の2面を使って、
「日本の選手、日本人の特徴と云われるものを打破、突破した先にサムライJAPANの進化がある」
という主旨のコメントを日韓W杯後に話していたのを思い出します。
 
 
もうひとつ、
今回、日本代表がデンマーク戦後に行った記者会見のコメントを載せてみたいと思います。
 
 
岡田武史監督(SAMURAI BLUE/日本):
「引分けでもいいということで、受けに回るような戦い方をしたくないということで 立ち上がりは少し攻撃的な4ー2ー3ー1という布陣で臨みました。しかし、中盤のゾーンの間、間を使われて、ボールを回されてピンチを招いていた。急いで元の4ー3ー3に直して、なんとかディフェンスが安定した。その後、いい形でFKから2点とってくれました。2点というのは非常に怖い得点差で、2点では終われない、もう1点なんとか取りたいということで、チャンスがあったんですけと取れなくて 相手が早めにパワープレーをしてきました。しかし、選手達は動じることなくよく耐えてくれて、そしてカウンターから3点目をとってくれた。我々は理想的な展開で終わることができました。
ともかく今日、選手達が臆することなく冷静にかつ激しく戦ってくれたと。素晴らしい選手達に感謝したいです。我々のチームには、他のチームにない力があります。それはサポートメンバーを含めた27名、スタッフが、一つの目標に向かって一つになれるという、サッカーがチームスポーツということを証明しようということ。それを見事に証明してくれたと思います。
ただ、我々の終着点はここではないと思っています。次のパラグアイ戦に向けて、今日は1日リラックスさせてやりたいと思っていますが、明日からスタートしたいと思います」

Q:
日本は過去、海外でのワールドカップで勝ったことがなかったが、今回の南アフリカ大会で勝てた理由は?
「いろいろな要因があると思います。私がこの代表チームを途中から引き受けた時も、南アフリカのワールドカップは冬だから暑くないと。走れる環境にあるはずだと。走るサッカーを我々はやる。そういう意味ではこの涼しい環境は、我々にとってはプラスだったと思います。ただそれ以上に、先ほども申しましたように、苦しい状況の中をチーム一丸となった乗り越えてきて、初戦に勝てたということが、みんなの自信になったと思います。なかなか本大会で世界を相手に持っている力を出せなかったのが、今回はそういうチームの力の中で個々の力を全て出し切れるようになったことが大きいと思います」

Q:
相手が(後半)パワープレーを仕掛けてきた時、かなり長い時間だったと思います。いろいろな選択肢を持っていたかと思いますが、どういう考えで動かなかったのか?
「パワープレーに対する対策のプランというのは、確かにいくつかありました。ただ、基本的にいいボールを蹴らせない、そしてしっかり競る、こぼれ球を拾うというという原則。それにプラスして、ファウルをしないということがありました。ファウルはしてしまいましたが。
その原則をしっかりやっていたので、バランスを崩したくなかったというのが一番の要因でした。それと、あの(デンマークの)選手達にヘディングの強い選手達を入れても勝てるという保障は我々にはなかった。それだったら、周りでボールを拾っている、カバーリングしている状況で我慢した方がいいという判断でした」

Q:
先ほどデンマークの監督の話で、本田圭佑のインタビューの時に外国人の記者が「なんでこんなに日本人はアグレッシブにプレーしたのか」と聞いていたんです。点数が3?1に開き、日本はどんどん攻撃的なサッカーになってきたと。確かにそれは、岡田さんがやりたい究極の組織プレーをベースにした非常にアグレッシブなサッカーになった。そして点も取ったと。そういうような展開は、終わりよければすべて良しみたいな感じで、世界にすごくアピールできたと思うのですが、そのへんについて何かコメントいただけますか?
「正直に言うと、まだまだいろいろな意味で世界との差はあると思います。互角に攻め合ったら、我々の選手はそこそこやります。しかし同じ数のチャンスを作ったら、決定力の差でやられる可能性が大きい。あと、中盤のミスからカウンターで決定的なピンチを作られると。実際、オランダ戦も攻めに行った時、カウンターを受けて2度ほど大ピンチになっています。まずはそういうところで結果を出すということから始めて、序々に自信をつけてきて。まあ相手にもよるんですが、今日のデンマークに対しては、ひとつはメンタリティの面で受けに入らせたくなかったというのと、やはりこれからチームが成長してきているところなので、それを止めたくなかった。というようなところから、勇気を持ってリスクを冒して攻めに出ろという指示を与えていました」

Q:
先ほど少しおっしゃいましたが、グループリーグを突破して見えたものをもう少し詳しく教えてください。
「結果としてグループリーグを突破したというのはあるが、この3試合を通して、やはり世界の中でトップレベルと本気の試合をなかなかできない。ワールドカップ以外は親善試合しかできない。そういう手探りの状況の中で『実はこれぐらいできる』『これ以上無理するとやっぱりやられるんだ』ということを選手たちが肌で感じて掴み出したのは非常に大きいと思います。ボールを繋いでいくのは我々の得意なところですが、中盤で手数をかけ過ぎるとカウンターを受ける。そのへんのさじ加減と言いますか、判断が選手たちにできるようになった。自信というのが一番大きいと思います」

Q:
前半、トマソンにかなり走られて、追い切れず3回程ピンチになっていたが、そのへんの情報がなかったのか? もしくは対処は何かされたのでしょうか?
「今まで中盤を5人のゾーンで間を開けないようにして、縦パスを入れさせず横パスをさせてプレッシャーをかけるというスタンスでした。しかし、4人のゾーンにすると、幅を全部カバーできなくて、中盤とディフェンスの間、間で受けられる。そしてトマソンが(スペースに)流れた時にカバーできないと。攻撃の時は違いますが、守備の時は5枚の中盤にすると、トマソンに付いていなかなくても、ストッパーが(トマソンに)付いていって、ボランチ1枚がディフェンスラインをカバーすると。ハーフタイムにはそういう指示をしていました。事前に情報を収集していなかったわけではなくてトマソンの動きもわかっていましたが、2人のボランチだとそれに対応できなかった。できるかなと思っていたんですが、難しかったというのが現実です」

Q:
ワールドカップに入って選手起用やシステムが大幅に変わったが、それが今回のベスト16につながったと思われますか?
「今年に入ってから、結果が出なかったとかいろいろあるんですが、やはり我々のやろうとしているサッカーの中心となる選手たちの不調が、Jリーグを通しても、代表で集まっても続いていたと。(不調の選手の調子が)戻るんじゃないかという期待をしていたが、踏ん切りをつけなきゃいけないところがきて、起用法、システムを変えました。おそらくそれは、ワールドカップという重圧。日ごろ試合に出ている選手のほうが、そういう傾向が強かったし、いろいろ話してみても重圧みたいなものを感じたので、思い切ってここは決断しないといけないということでメンバーとシステムを変更しました。これはある意味で当たったと言えますが、もし重圧や不調がなかったら、前のやり方でもいけたかもしれない。これはまあ、わからないですけど、自分の中ではそう思っています」

Q:
今日の1勝は岡田監督にとって忘れられない1勝になるのでしょうか? 今夜、勝利の余韻に浸りますか?
「まあワールドカップの勝利は、どれも忘れられないのですが。ただ、自分としてはカメルーン戦での1勝のほうが大きかった。あの1勝がなかったら何もなかったと思うので、非常に印象深い1勝でした。今夜は、ホテルに帰っても深夜ですし、疲れもあるので、たぶんすっと寝ると思います」

Q:
今日までの3試合を通じて、選手の力に驚いたこと、岡田監督の予想以上に頑張った、こんなことができるのかと思ったことはあっったでしょうか?
「先ほど、中心になった選手の調子が上がらなかったと言いましたが、(調子が)戻ってきた選手もいるし、逆にそれ以外の選手が非常に調子を上げてきてくれた。プラス要素もたくさんありました。それはまず自分にとってはラッキーというか幸せなことでした。それがなければ、今はなかったと思っています。そういう選手達がここまで出来るんだという驚きもあります。
それと共に、今日の試合で(相手が)パワープレーでしてきた時に、ベンチに向かって『(阿部)勇樹を下げるのか、下げないのか』ということを尋ねてきたんです。でも私の指示の声が通らなかった、声は聞こえなかった。そうしたら彼ら(選手達)は自分達で判断して、相手が4枚になったら(中盤の)2枚が下がって対応していた。これはもう素晴らしいことだなと。ここまでできるようになったんだというのは、自分にとってうれしい驚きでした」

以上
 
 
これらの様々なコメントを通じて、
感じるのは、
「我々には自信がない」ということが前提になってやしないか、ということです。
 
 
自信がない。
 
 
さて、みなさんに質問です!
「自信がない人が仮に居たとします。自信がない人は日常どういう行動、言動をとるのでしょうか?」
想定できる、出来る限りの現象を箇条書きしてみてください!
 
……。
 
出来ましたか?^^
人と見比べてみると、面白いことに気づくことでしょう。
自分のことを問われているわけではないにもかかわらず、
「自信のない人」への印象は、そうかけ離れていないことが明らかに分かるはずです。
 
 
「自信のない人」が居るのか、居ないのか、も分かりません。
どういう要件が自信のない人と云えるのか、も分かりません。
ですが、
自信のない人とは?と聞かれれば、
なぜか、多くの人の印象はあまりかわらないのです。
 
もしかしたら、
日本人の深層心理に植えつけられてしまったものがあるのかもしれませんね。
もしそうだとしたら、教育とはおそろしいものです。。。
 
 
そんな中、
先ほどのデンマーク戦後の岡田監督のコメントに
 
>「今日の試合で(相手が)パワープレーでしてきた時に、ベンチに向かって『(阿部)勇樹を下げるのか、下げないのか』ということを尋ねてきたんです。
>でも私の指示の声が通らなかった、声は聞こえなかった。そうしたら彼ら(選手達)は自分達で判断して、相手が4枚になったら(中盤の)2枚が下がって対応していた。
>これはもう素晴らしいことだなと。ここまでできるようになったんだというのは、自分にとってうれしい驚きでした」
 
と、あります。
 
この文章の骨組みを抜き出すと、
“目的の為に必要なことを、自分で考え、自分で決めて、自分が実行する”となりましょうか。
これに岡田監督は驚きを感じていたのです。
いみじくも、トルシエ元監督の言っていた「日本チームに必要なこと」とよく似ています。
 
岡田武史監督53歳。日本代表メンバー平均年齢27.83歳。
ちなみに、日本代表の平均年齢は、全出場32チーム中では27番目にお年寄りです。
 
 
日本人のメンタリティー。
 
 
サッカーに関わらず、
自分の身の周りに起こる出来事は、自分が創り出していると云えます。
はい、確実に選んでいます。その事実を。
サッカーをやることも、今している仕事も、勉強も、恋も、自分が選んでいます。
なぜなら、今のそれを選ばなくても大丈夫だったはずです。他を選ぶこともできたはずです。
 
ですが、
「他人があることだから」「相手が決めることだから」と言ってしまいがちです。
選ぶのではなく、選ばれることに慣れてしまっている。
決めてもらうことに慣れてしまっています。
どうしてでしょうか?
前回のブログにも書きましたが、情報が不足しているからです。選択肢が多くないからです。
機会が限られていると、思い込んでいるからです。
 
他に決めてもらう。すなわち他に依存する生き方はある意味楽です。
考える必要が、決める必要がありません。
自分にとって不快なことが起これば他人のせいにし、忘却し、
自分にとって少しイイことが訪れれば、ラッキーだと喜ぶ。
 
しかしながら、これでは何も為していません。
 
訪れるものを、その時の自分の価値基準で評論しているに過ぎません。
 
自分で決めて、自分で為す!
これでこそ、人生です。
でなければ、他人の道を生きると云うことになります。
 
 
さて、
我々は「最高の人生だった!」と言うために、
今何をすべきなのでしょうか。
 
答えは…
ありません。
というより、それぞれにあります。
 
「死に際に最高の人生だった!という人はどんな人生を送った人だと思いますか?」
これを箇条書きにしてみましょう。
 
そして、
それを自分で実行できた人には、
「最高の人生だった!」と言える確率が、ウン!と増すことでしょう。
 
リスク。
基準はありません。
危険と思えば危険ですし、気づかなければ危険でもなんでもありません。
「怖い怖い」と思う人に、危険は訪れます。
 
すべては自分が招くのです。意識がつくりあげてしまうのです。
 
 
「負けない」は勝つための要件ではありますが、
負けない為の手段は、「勝つ為の最短距離」であるとは限りません。
 
「負けない為の走り」から「勝つ為の走り」へ。
勝つ為に走り、負けない為に走る。
これが共存できたチームが優勝には相応しいということでしょうか。
 
快進撃を見せるドイツチームの平均年齢は24.96歳。
全チーム中3番目の若さです。
もし、彼らがそのメンタリティーを持ち合わせているとしたならば、
誰よりも若くして多くを学ぶ努力をしたという証になるでしょう。
 
 
 
「勝つ!」という目標のために。。。

musubiにまたまた新しい動きが出てきています。

 
若手を中心とした「勉強会」なるものが企てられています。
musubiに出入りする若手といっても、スタッフおよび協力スタッフが中心。
何やら…
「それぞれが持っている知識や知恵を公開、共有しよう」という場だそうです。
聞き耳を立ててプログラムを盗み聞きしたところ…
twitterの使い方とこれから」とか「手話講座」とか「キャバ嬢裏話」とかとか。。。
しっかし、どんなコンセプトなんでしょ^^;
 
今のところメンバーを聞くと、
寄りも寄ったり、こりゃまた個性的でオモシロイのです。
分かる人には顔まで浮かんできそうですが…
元教師あり、ミュージシャンあり、プロトレーナー、不動産のプロあり、某国立大生あり……><
未来は明るいのか、暗いのか。。。(苦笑)
 
勉強。
どんな組織でも一度は必ず「勉強会をしましょう」的な話題は持ち出されると思います。
ぼくも幾度となく、そういう機会に恵まれました。
とても美しく、異論のない提案であり、時には決めごとであったりしました。
ですが、今からかれこれ十数年前のとあるプロジェクトチームでの出来事。
「○○勉強会などというものはやりません」と、
そのチームのリーダーは宣言しました。
 
途中はあえて割愛をしますが、
そのプロジェクトチームの業績はすさまじいものでした!
1年を期限として、その中で与えられたMISSIONを半年で成し遂げてしまったのです。
 
あれから十数年、
時代は相当なスピードで動きました。
「勉強」という言葉の概念が変わるのではないかと思うほどに。。。
 
一時期、ビジネスの世界では「knowledge」というワードがKEYになったことがありました。
knowledgeマネジメント」「knowledge共有」などは、
今でも組織レベルをUPするためには不可欠とまで言われています。
 
これらは、
各々が持つ「暗黙知」というものを「形式知」化し、
共有知化、すなわち周知とすることで、
知らなかった人のレベルを既知者レベルまで上げてくることにより、
全体の知識インジケータレベルをUPさせ、全体の知識総量が上がることを目指します。
 
という、ウンチクはともかく^^;
>時代は相当なスピードで動きました
と表現しましたが、
これは、相当なシステムの変化を余儀なくするものです。
進化とは、
「突然変異を伴ったマイノリティが、環境変化に偶然に適合すること」とでも言いましょうか。
これまでの進化は、
言語の開発、文字の開発などが人類の大きな進化だったわけです。
この進化の過程には想像を絶する時間を費やしているわけですが、
この方程式が分かってしまった今、
環境を変化させることによって(本質的には変わっていないのですが)、進化を促し、
時間の速度をUPさせているという(うがった)見方が出来ます。
 
これには要件として、
「時間」「自然変化」「(脳による)認識」の3次で捉えることになります。
「これまで」と「これから」の圧倒的な違いは、
遺伝子以外のものが、復元されて残るということです。しかもほぼ真実に近い形として、です。
 
スゴイことなんです。
いや、ほんとに!!!!!!!!!!!!!!!
 
こんなことがどうして出来るようになったんでしょうか。。。
要因としてあげられることは様々ですが、
もっとも上位にくるだろうこととしてあげられるのは、
「それを脳が望んだ」です。
 
脳は、遺伝子すなわちDNAに支配はされていますが、
一方で独立した意志・意思を持つことができます。
 
これは比喩的な表現ですが、
人、すなわち脳はそのDNAの知られざる意図を理解しようとします。
そこで脳は、人の中にある”DNAの業をことごとく人体の外に創造することにやりがいを見出すようです。
ピアノは人の聴覚のしくみを外に出したと表現されたり、
視覚のしくみをブラウン管に応用しました。
また、コンピュータは脳のしくみを機械化することにこだわりを見せます。
都市は安心を模写した、すなわち自然の恐れを感じさせない場所をつくりだしたと言えるかもしれません。
まぁ、これらも濃すぎる色眼鏡をかけた表現かもしれませんがね^^;
 
こうして生み出されたモノは自己では複製したり、進化したりすることは出来ませんが、
人の手によって、人の望むように、
カタチを変えたり、用途を変えたりします。
人の手、すなわち脳によって進化させられます。
 
生物=DNA以外には成立しなかった伝承””複製が為されているわけです。
 
そしてそれらの技術こそが、
発明””発見という成果であり名誉であり、
うがった言い方をすると(^^;)権益を与えたたわけです。
 
ところで、話は少し変わりますが、
これはぼくの経験値からくるもので、
組織のヒエラルキーは、情報の既得権で担保されていると言えます。
 
ヒエラルキーの頂きに近くなるほど、
その場に担保される情報は秘密となり、それを知る人のみが受益権を得ます。
 
これらの話を掻い摘んでみます。
表現は少し悪いのですが、
すなわち、極端に言えば「知」というものは隠蔽される傾向にあるということが分かってきます。
それには、
「知」や「情報」は、知り得たものだけが得をするという方程式があるのかもしれません。
そして、歴史はこの「知」や「情報」をpatentknowhowに2分類化しました。
先に換金化するか、ジワジワ換金化するか。。。
 
ですがです!
こうした「お金を動機軸にした知の公開」から、
「そうでもない知の公開」が為される時代に突入しています。
ネット上では、数々のシステムが無償で提供される時代です。
もちろん、商業的にハードウェアを配布し、ソフトウェアで課金しているというものもありますが、
「そうではないもの」が流布しています。
 
知や情報はドンドン公開される傾向にあるわけです。
情報を隠蔽することによる既得権益保持が成立しない世の中に流れています。
 
「情報を得る」ことが価値である時代から、
「情報を公開する」ことが価値になる時代に変化しつつあるわけです。
 
さてさて、
そうすると今後は「これまでのシステム」にどういう変化を及ぼすのでしょうか。
 
社会システムがヒエラルキー構造であったものが、
フラット構造化していきます。
まるで、ホストコンピュータ構造からP2Pを見るかのようです。
どうやら、ここにも、
脳の表現形が見てとれます。
 
これからの商品、システム、サービス…
いずれも脳のようにがテーマになりそうですね。。。
 
ただ、見間違えてはならないのは、
脳を知ることと”DNAを知ることとは異義であるということです。
脳は真理ではないということです。
 
DNAのおそろしいところは、
脳を構成している、いわば支配をしているわけです。
が、
脳がDNAを支配しようともするわけです。
伝承複製DNAの特権だったわけですが、
脳はいつの間にかそのオハコを盗み取ってしまったわけです。
 
音楽や絵画が、生みの親の生命個体が朽ちても伝承されるようになったように、
建築物、思想などの無生物が、
伝承され、時には変異をしながらも、
生物のように伝承されています。
DNADNA自身を育んできたように、脳が脳を育んでいるわけです。
 
しかしながらDNAは生き続ける一方で、身体には寿命があります。
継承される過程で、価値の変化が起こります。
斬新なデザインを誇った建造物も時を経て流行遅れとなり、
また時を経て懐かしいとされ、いずれレトロと言われ……
やがて重要文化財や国宝などとして守られる存在となります。
そのもの自体には突然変異性がなく、
相対的にマイノリティであることを変異体として認定します。脳が。
いわば決めごとのように。。。
 
とにもかくにも、
環境は、すなわち自然は、変化しています。
いえ、厳密には、
変化はしているのですが、人の変化スピードの方が速いので、
少し変化したものを、大きく認識、認識を変えているという方がより正確です。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」なわけです。
人は変わろうとするもの、そこに居座ろうとするもの、
様々です。
それは、あくまでも「意識」がある意味無理矢理そうさせている、
ということになるわけです。
俯瞰してみると、
毎日少しずつ変化している自然に、人の意識が追いついたり追い越したり、
間をおいてみたり、遅れてみたり……自作自演をしていることになります。
「かわらなきゃ」と言ってみたり、
「変わっていない」とオトコの美学、武士道風を気取ってみたり。。。
 
ですが、
前述したように、
自然に適合することが進化と定義するならば、
人が変化する、しようとすることはどうやら摂理とも言えそうです。
しかしながら勿論それ以前に、
進化するのか、留まる(実質退化)のかを選択することも可能です。
 
 
……。
 
長々と書き連ねてきましたが、
どっちでもいいことなんです^^;
「じゃあ、なんなんだ?」ってことなんですが、
すなわち脳で考えることは、脳で為すことは、自然ではないのです。
自分という物体をどんな風にでもキャスティングすることができてしまうのです。
自由なのです。
すなわち、キャスティング通りになるんだよ!ということです。
「なりたい自分」になれるんだ、ということです。
それを阻むのは、
自分自身の「意識」だということです。
もう少しだけ言及すると、
「自分への制限」であるということです。
そして、
それは「情報不足」という原因がもたらすものであり、
要因は「勉強不足」となります。
ゆえに「勉強」をしてもなりたい自分にはなれません。
必要十分条件にはならない。
 
なりたい自分になれないのは、
なりたい自分になるために必要な情報が足らない。
 
一番知るべき情報は
「なりたい」を持ち、
「なる」ことを決め、
「なるため」に必要な要件を得る。
はい、「頑張る!」ということです^^♪
 
ただ、それだけの方程式をコツコツと解いていく。。。
 
たった、それだけのことなんですね☆
 
すなわち、
目的地を決めるということが大事なのです。
目標を定めることではじめて!
情報が「知」化します。
 
たとえ話によく使われるのが、
高速道路にあるS.A(サービスエリア).の看板です。
ここには、様々なサービスをアイコンで標識化し情報を伝えています。
この情報は、
受け取る人にとって、その有効性は変化するということです。
そしてその看板の下に一言
「この先のサービスエリアは30km先です」と。
ドライバーは尿意をもよおしているとしましょう^^;
 
「今すぐにでも行きたい!」人にとっては、緑の看板が見えた時点で「救われた><」となります。
「目的地が10km先にある人」なら、アイコンと補助メッセージを総合的に捉えて、取るべき行動を判断します。
「目的地がずっと先にある人」ならば、尿意のない人でさえも「行っておこう」と判断するかもしれません。
少し視点を変えると……
「看板の情報を見落とす」という人も、ある一定数は居そうです。
これは「今何をしたいかが分からない」という人です。。。(尿意があるにも関わらず、尿意を忘れてしまうということ)
……笑い話なんですが、笑い話にならない経験を誰しもしたことがあるのではないでしょうか。
 
***********************************************************************
 
夢。
「やりたい」「なりたい」という目標、目的。
ここに向かうと決めること。
そうすれば、
何が有益かが見えてくる。
 
 
これからの社会というか、環境というか、コミュニティというか、
そんな感じのものは、
そこに生きる人が、快適なものを創りだすのがいいのでしょう。
ぼくは、
自分が50歳として生きる数年後を快適にしたいと思います。
自分が生きる60歳の環境を準備したいと思います。
自分が70歳まで生きられるようにしたいと思います。
「何が正しいか」なんてことには責任は持てません^^;
「自分がこうしたい」ということに精一杯です^^☆
だって、それだけでも結構大変なんです。
最大の難敵は、自分自身だったりするわけですから。。。><
 
けど、もっとも簡単です!
自分以外の“何か”を変えることは難しいですが、
自分自身を変えることは“それ”に比べると容易いことは分かっています。
“やればいい”だけですから!!
 
勉強。
目標、目的をつくること。
 
授けられたものではなく、
その人から溢れ出る”WANTS”に立ち会える機会に恵まれていることを、
本当にHAPPYに思います☆
 
「ありがとう」。
 
オラもがんばるぜよ!!
 
 
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