カラフルライフの創り方^^☆

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「高速で進む物体の中では時間は遅れる」
 
聞いたことがあるかもしれませんが、
アインシュタインが発表した相対性理論の中でのメッセージです。
 
「猿の惑星」という映画がありました。
宇宙船に乗った人類が、とある星に不時着します。
その星では、猿が文明をつくっています。
猿中心の社会です。
その星には「禁断の地」があります。
不時着難破した人類は、そこに足を踏み入れます。
そこには……
 
朽ち果てた自由の女神像が横たわっている、、、
 
と、まぁ、ザっとのあらすじです。
 
この映画のメッセージをどのように読みますか?
 
 
先日、久しぶりに遠出(とは言っても岐阜県)しました。
昔は仕事柄、毎週のように新幹線で移動し、
月に一度は飛行機で日本国中をウロウロしていたものですが。。。
 
JR岐阜駅から金華山岐阜城に向かう国道256号線が目の木通り。
近代的ですが、決して背が高いとは言えないビルの間に、
未だに残る昭和風情の商店。
国道と垂直に交わる路地はアーケードのせいか、急に立ち込めた雨雲のせいか、やや薄暗い。
5分後に降りだす通り雨を、察知させてくれたのどの渇きが導いたのは、これまた昭和な喫茶店への扉。
アイスコーヒーは350円。しかも駄菓子が4種付。
夕立の雨宿り風情を満喫させていただきました。
 
用を済ませ、
再び、新幹線に飛び乗り、同窓会のお手伝いのためのミーティングに参加。
様々な会話の中で…
とある同級生の発言。
「サラリーマンはすごいよね!」
「とくに東京で働く人らはちゃんとしてるよね!」
「ポイントをまとめる力があるし、要点ついて説得力がある話し方するよね」と。
はい、この方もご実家を継がれる前は列記としたビジネスマンであらっしゃられました(笑)。
 
 
アインシュタインの世界観。
東京をはじめとする大都市での世界観。
そして、一部の大都市以外の多くの地方市町村の世界観。
 
……どれもこれも現実。
 
何が何のために、なぜ必要なのか。。。
 
我々は地球に生まれ、地球で死ぬ。
仮に宇宙船に乗っても、帰ってきた場所が地球であるならば、
地球の時間軸で一定の時間を要して死ぬことになります。
 
視点が今どこにあるのか、
これは大変重要な観点であす。
 
例えば、
「今よりももっと多くの収入が欲しい」と感じたとする。
それを導く状態、すなわち現実があったとするわけです。
そして、この状態を何に起因するかを自己で分析したとき、、、
その結果、これを
枯渇と認識するか、不安と認識するか、現象をどいう現実と見做すか、大きな分かれ道となります。
(究極的にはどちらでもいいのですが。。。汗)
 
重要なのは、この分類化という作業。
多くの場合、人は不安を感じると緊縮の方向に進み、
枯渇の場合は拡張に向かいます。
 
今の収入を招いているのは、今の言動がそこにあるからです。
枯渇感の方をより多く感じる人は、
自分の可能性や、想像する未来の自分像と比較して「足らない」と見ているからでしょう。
不安感を多く感じる場合は、
将来自分を取り巻く環境の可能性や、想像する未来の環境と比較して「足らない」と見ているからでしょう。
 
いずれにしても仕方ない話ではあるのだが、
前者の場合は、自分を変えることで充足することへ迎うことが出来ます。
が、
後者の場合、環境というとてつもない大きなものを自分の手で変えない限り、
充足するためには、偶然を願うしか手はなさそうです。
 
○○感というのは、
実態がなければ、基準もない。
しかしながら、我々の行動はこの○○感に大きく左右されます。
翻弄されるわけです。
 
「こういう時は、こうしなさい」というマニュアルの存在(教制=教え込み)が、
脳の柔軟性を失わしているとも言えそうです。
 
「でなければならない。。。」
 
分類化しかり、
教制しかり、
信念しかり、
これらは、分からない未来に対する信じ込みという自翻弄とも云えます。
不安を枯渇に変えることによって、
萎縮、緊縮、膠着を拡張に変化させていく作業であります。
 
安易な自己啓発やコーチング、
カウンセリングなどはこの類にあたります。
 
その時は高揚するわけです。
やる気にみなぎるわけですが、
一方でなくてはならないものを作ってしまっている。。。
と、なります。
 
 
「でなければならない」という思考の出現は人らしさを蝕みます。
そもそも、
人を含め、生物は自由なのです。
どう生きてもいい、という権利を有しています。
他者のどう生きてもいい、とぶつかることはあっても、
人のどう生きてもいいについてアレコレ言うのは、
すなわち、
自分のどう生きてもいいを放棄し、
挙句、自由に生きる人へのを阻害することで、
自由度の絶対的差異の距離を縮めようとする行為にほかなりません。
他者の自由を拘束することで、自らの相対的自由度を増すという行為にほかなりません。
 
他人への口撃の強度は、
自分の愚かさの度合いに比例する、ということです。
自分が自由でない、自由という権利を使いきれない、という落胆度、
もしくは遅れている具合を、
他者を誹謗中傷することで、他者の社会的相対評価を落とすことを画策して、
自分との差を埋める行為にほかなりません。
(相手の評判を悪くすることで、自分の価値を高めようと画策するの意)
 
と、まぁ、
これもどうでもいい話なのですが^^;
 
 
「どこから、その対象物を見るか」
によって、その見え方すなわち評価は変化します。
評価とは現実(≠事実・真理)と云われるものに似ています。
ですが、見る位置によって違う現実は、
事実とは異なります。(と定義しましょう)
だって、
高速船の中では時間は遅れるわけですから。
 
時間でさえも、
絶対ではない。
 
さて、
どこから今の自分を見ましょうか?
過去の自分から今の自分を見る経験は誰しもが試みることですね。
「昔の自分ではあり得ないことだわ!」とか、
「まさか、こんな人を好きになるとは思ってもいなかったわ!」などと。
これが出来るということは、
または、この自分の行為にとっても納得しているならば、
未来から自分を見ることも可能となります。
 
さて、
夢を叶えた自分は、
今の自分を見てどんなアドバイスをしてくれるのでしょうか。
満ち足りた自分は、
今の自分に対してどんなことを言ってくれるのでしょうか。
 
 
自分にとって、どうあることが最幸なのか。
幸せの軸は自分で決める
ことは、とても重要なことです。
 
シアワセのカタチは、
様々です。
「入学できてよかったね」
「就職できてよかったね」
「結婚できてよかったね」
本当にそうなのでしょうか。。。
本当にそれはイイことなのでしょうか、と真剣に考えてみることは大切です。
イイことではないとは言っていませんよ^^;)
 
様々なんです。
 
シアワセを感じる瞬間をゴールとしたならば、
何を得ることがゴールであるのか。。。
入学や就職や結婚がゴールなのか、
それとも、その先の何かを感じるための環境設定でありプロセスなのか。。。
 
何でシアワセを感じるか、
すなわち、軸は様々で然るべきはずです。
すなわち同様に、
プロセスやカタチも様々であるはず。
 
親が子どもを見る視点については、多くが語られています。
富裕者が貧困者を見る視点については、多くが語られています。
都会が田舎を語る書物は多く散見されます。
 
情報は、いや情報量は公平ではありません。
偏っている、と表現することは差ほど偏ってないと思います。
現に、さきほどの逆の観点から見た(子→親、貧困→富裕etc.)言論にはなかなか出逢えません。
 
誰から何を見ることが真理真実なのでしょうか。。。
 
結局は、見ているその人自身が決めることです。
すべてのことが、そうなのではないかと思います。
そして、ですが、そこには真実などありません。
あくまで事象としての現実がそこにあるだけです。
 
テレビ画面を、我々大多数が見ているテレビ画面のまま見ることが出来るのは、
地球上の全生物のうち、わずかの生物なのです。
あるものには白黒に見えます。
あるものにはもっと多くの色を認識することになり、
あるものには線の束にしか見えず、
あるものには常に2画面状態に見えるのです。
同じ人でさえも差があったりします。
 
すべては、
勝手な決め事に基づき、そうであることがごもっともであるという、
脳の設定値を決めているのです。
そして、その設定値はしばしば予定なく変更されます。
それは一部の人の大きな声によったり、
社会や世間という盾を作りながら、一部の人が意図的にそうするわけです。
(少々うがっているかもしれませんが…^^;)
 
歴史では、戦争でさえ肯定し、
すなわち平和を否定したわけですから。
 
正しい事とはどんなことでしょうか。
間違ってないとはどんなことでしょうか。
 
普遍的にごもっともであることが導きだされない限りは、
いずれにも答えはないということなのかもしれません。
そもそも、
目的になる対象が明確ではないからなのかもしれませんが。。。><
 
 
我々は、
そんなにいうほど難しくない。
物理的に見れば、歴史的に見れば、
単なるDNAを運ぶビークル(乗り物)なのです。
アッ、という間に生まれて、アッという間に死んでいく物体です。
物体としては死んでしまいますが、自らを構成しているDNADNA構成要素は生き続けることがほとんどです。
しかしながらDNAは、DNA単体では生きていくことができません。
それはいかなるDNAもそうなのです。
 
DNAは運んでくれさえすればイイと考えているようです。
しかも「あなたにだけ、わたしにだけ」というわけでもなく、
生き残るために、兄弟や親戚という保険をかけて運んでいます。
 
彼らの壮大な計画の媒介となるのが、生物のカラダという捉え方です。
 
我々のカラダは様々にDNAに支配されています。
 
そこから意識的な部分だけ独立できる脳。
その脳ではDNAの支配から数年間だけ自由自立できる時間を与えられるわけです。
どんな風にでもつくっていける。
コントロールされているようで、
コントロールされなくすることも出来るのです。
DNAと脳、もしくはそれと人体とはそういう関係性なわけです。
とある観点ではそういうことです。
数億年、
こういうしくみ、システムの中で動いているわけです。
 
そして、
その脳に与えられた数年間の生命としての猶予期間を、
色どりを変えながら、あーだ、こーだと言いながら、
自由を謳歌させてくれるわけです。
 
たった数年の命を与えられた脳から見る現実と呼ばれる世界。
数億年のシステムから見る人および脳という生物生命体。
どちらも然りです。
 
あぁぁぁあぁぁぁ???長い長い長い。。。
とにかく文章が長いわけですが^^;
書いている時の時間は止まっているほどに短いわけです。
そしてこれを読んでいる時の時間は…きっと長いですよね、汗。
 
とっても短い人生の相対的価値を高めるには、
相対的価値を高めるにはですよ!
短く感じられることに時間を費やすことが大切なんだろうと思うわけです。
生まれることと、死ぬことには自由は利きません。
選ばないわけですが、それ以外の事は選べます。
いつ生まれて、いつ死ぬかは選べないのです。
(喜んで自殺する人は居ないと仮定すると、この理屈はまかり通るわけです)
 
自由。
 
生命体である間とそうでない間にあるもっとも大きな差は、
自由であるか否かです。
 
すべての「でなければならない」から解き離れた時、
それは、その人の脳すなわち、その人が全人的にその人になれる時であると思います。
それは人間でもなく、唯一無二な人として存在できるのです。
脳は自由ですから、
他者と同化することの難しさを知り、有難さを知ることとなります。
一方で自由であることの真理を知ることになるのでしょう。
 
ルールやシステムは人がつくりだしたものです。
ツールです。
慣習や世間体はルールにも及ばないものです。
時として便利に使えますが、大よそ不必要なものだからルールとはならないし出来ない。
都合よく持ち出すことができるツールです。
ですが、
ツールがゆえに、使わなくたっていいのです。
使わなくても、自由に、楽しく、幸せに時間を過ごすことは可能です。
 
限られた数年という時間。
何を得るために、何をするか。
このシンプルな問いに答えられる生き方をすることこそが、
脳が脳である、脳が脳の役割を果たすことになるのではないでしょうか。
 
ぼくは、
よっしゃ!””やったー!!””ありがとう!!とココロから出る感情表現の回数にこだわりたいです^^☆
スゴイ!””すばらしい!!!の回数も♪
 
 
もし、自分の本当にやりたいことが出来ない理由に
「とはいうものの」という訳が存在していたら、
それは自由であることをDNAに奪われていると思ってもいいかもしれない。
いや、もっと単純に他人に、他人の目に奪われていると言っていいでしょう。
 
他人の人生を生きるか。
自分の人生を生きるか。
 
ぼくは今、自分のことで精一杯です^^
他人に対してとか、他人の自分に対する様々な刺激も、
気に出来るほど余裕がないかもしれません。
 
けど、
信頼できる人、自分を盛り上げてくれる人、自分の愛する人、
そういう人々に囲まれ、授かり与えながら、
自分の自由を謳歌できる人生を満喫しまくりたいと思います。
 
ただそれだけなんです。
長すぎましたね^^;

カラフルライフの創り方。。。
脳を様々な制限から解放し、
脳をやさしく飼い慣らしてあげればいいだけです☆

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このページは、peachが2010年8月19日 14:10に書いたブログ記事です。

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