2010年12月アーカイブ

おっとっと。。。

 
なんと、もはや12月師走ではございませんかーっ><
ブログ…気になりながらも…更新できずにおりました。
 
大好きな久米島マラソンに行ったことも、
嵐山の紅葉が未だ素晴らしいことも、
まるで書けてなーい!
 
MOTTAINAIの極みです。
 
しっかし世界情勢激動の1年でしたね。
まだ終わってませんが、いろいろございました。
そのひとつとして、
「同窓会」がありました^^;(私にとっては立派な世界情勢w)
 
25年ぶりの大同窓会。
同窓生は約320人。
今回は約170人が集まる事が出来ました。
 
イベントの中で、
「残念ながら、来たくても、会いたくても会えなくなった人が居ます。
名前は読み上げませんが、その数名の方々を想い出しながら黙祷を…」
というメッセージに”ハッ”とさせられました。
 
 
・・・・・・今一度、心から御冥福をお祈りしたいと思います。。。
 
 
 
 
 
 
 
さて、同窓会。
 
【同窓会】(名)同窓の人たちの親睦のための団体。また、その会合。

これって”踏み絵”だなぁ?なんて思ったり^^;

行きたいから行く。
行きたくないから行かない。
行きたいけど行かない。
行きたくないけど行かねばならない。

表舞台裏では、
気の置けない仲同志間で様々に思いの交換がされます。
しかしながら、
この4つの思考パターンにはそんなに差はないのでしょうね。
 
そんなことよりも、同窓会という場でかなりの頻度で交わされる言葉に、
「変わってないなぁ」と
「○○になったなぁ」=要するに「変わったなぁ」という言葉。
 
これは興味深いです。
どこから(誰から)、
何を、何と比較して、そう言っているのか……
 
今回、約25年ぶりに再会したという間柄もあります。
人生の半分以上。
物心がついてからを換算すると……人生の大半会ってなかった人との再会だったりします。
 
変わった、と言われるのが嬉しいか、
変わってない、と言われるのが嬉しいか、
どちらでしょ^^;
 
誰しもが、
頭の中で「これはこう」「これはこうあるべき」「これはこうあって欲しい」という物語をつくります。
はい、これは現実ではなく、
明らかに物語です。
 
脳は、
情報が十分に無い状況を打開するために(不安を解消するために)、
“推測”という技術をもって、
情報を補填して、気持ちの落ち着きどころをつくりあげるクセを持っています。
またそうするようにクセづけられています。長年の教育で。
 
基準とか拠り所というものを作り上げます。
その差異でもって、
五感で感じたものの位置を脳内にプロットします。
分類化するわけです。これが”認識”の実態です。
すなわち相対性です。しかも自分の経験値内相対性です。
あくまでも経験した事以外は認識の範疇にない、という定義での話です。
 
「分かる」ということは、既知であるということです。
しかしながら厳密には、
「分かる」は経験ではなく、推測であることが、
「やる」「実際に行動してみる」ことで気付く事が出来ます。
 
物事の大きな差異は0と1です。
“「行く」「行かない」の理由”の差は差ほどでありません。
目に入る入らない、耳に入る入らない、ほどの差ではないわけです。
 
先に起こる事は分からないわけです。
が、
推測という行為は過去を利用し行われます。
 
これらの理屈がまかり通るならば、
未来の作り様は、如何なるものが望ましいかが分かってきます。
“物語”はどう創る事が自分にとって嬉しい事なのか、が分かってきます。
 
「今」という瞬間や、
「未来」がどういう姿形かは、自分が創る他ないことに気付き始めます。
すなわち……
「思った通りにしかならない」ということです。
 
「いまここにある機会」をどう受け止めるか、
この一事が万事だったりするわけです。
 
どう認識したっていいんです。
どう認識しようが、しまいが、
そんなことは“誠の事実”ではありません。きっと。。。
今自分が”ここ”から”それ”を見ている以上でも以下でもありません。
他己は自己ではないわけです。
今は二度と現れないんですから。
 
子どもが大きな夢を描く事が出来るのは、
過去に囚われないからですね。
ほとんどは身の回りの人(特に親)が邪魔をするわけですが、
放っておけば、子どもは夢に向かって生きていくことでしょう。
「やりたいこと」をやっている時と、
「やりたくないこと」をやっている時とでは、
時間の経過速度が違う、と人は平気で言います。
そんなわけないのに、実際にそう感じます。
 
それをウソと言うか、ホントと言うか……
いやいや、どっちも事実です。
 
生きる事を、
どう捉えるか……
“生きる”は未来に存在する事とも言えます。
“未来”をどう捉えるかは、
自分で決めればいいだけなんですよね。
 
思い通りになるし、
決めた通りになるだけなんです。
 
ただただ、それだけなんですよね^^☆
 
25年という歳月。
四半世紀です。
時間にすると…25年×365日×24時間。
この時間の経過を、
変わったものとすることも出来れば、
変わったものとしないことも出来ます。
本当に出来るのです。
それを、脳が勝手に決める事が出来ます。
はい、自由に決める事が出来るのです。誰からの束縛もなく。
唯一あるなら、自分が自分を束縛する呪縛のみがそうさせます。
 
誠にオモシロイ。
 
そんな自分を宇宙から見る事さえ出来ます。
見てみてください!
自分を「理想の星の、なりたい自分になったと仮定して」
今の地球の日本に居る自分を見てあげてください。
 
その地球上に居る「自分」(らしき)人は、
宇宙に居る自分から見てイケてますでしょうか?
悩みを聞いてあげてみてください。
どんな風にアドバイスしてあげられるでしょうか。
 
これくらいのことは誰の脳でも出来る事です。
脳とはそんな風にある意味現実離れしているヤツなんですよね。
なんだって出来る^^;
(すなわち、脳は自分のカラダを信じてあげてないことが多い。。。「出来るわけないやん」が口癖の人はそうです><)
 
「事実」とはそんなものなのでしょう。
事実らしきもののほとんどは“脳がつくるSTORY”です。
 
アインシュタイン曰く
「空想は知識よりも大切。空想は世の中すべてを呑みこんでしまうが、知識にはおのずと限りがある」
「私たちはいつか、今より少しは物事を知っているようになるかもしれない。しかし、自然の真の本質を知ることは永遠にないだろう」
「知っていること、分かっていることとは自然界のほんのひとかけらにしか過ぎない」とも。
 
そして興味深いのが、
「教育というのは学校で習ったすべてのことを忘れた後に残るものだ」
と言っています。
「間違いを一度も犯したことがない人というのは何も新しいことに挑戦したことがないのだ」とも。
 
 
 
世(自然)を理解することなど出来ない。支配することなど出来ない。
だからと言って、
何もしないというのは、生きるということを放棄している。
生きるということは未来に生存するということ。
未来はどうなるか分からない。
生きるという選択自体、挑戦をすると決めているとも言える。
が、その中で失敗をしてはいけないということ自体が、
まるで「アクセルを踏みながらブレーキを踏んでいる」が如くであります。
 
我々は「自由」なのです。
「自由」と「制限」は対を成します。
「してはいけないこと」をしてもよい、のではなく、
「したいこと」を「する」という選択が単純に純粋に出来るようになりさえすればいい。
そして、
それを「他」のせいにするという「他者への依存」から(○○だから出来ないetc.)、
「自分を信じる」(=カラダと脳を信じる)というとてつもない武器を持った時、
それは初めて!「自分が生きている」という証となるのではないかなと思うのです。
 
 
同窓会。
 
 
過去の自分を清算する機会。
新しい自分をお披露目する機会。
そんな風なことを考えた、長いようで短い1日でした☆
 
 
 
43歳。
残すところあと数年。。。
 
 

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